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2012年3月15日木曜日

泉玉露仮設自治会 合同慰霊祭

あの大地震と津波被害から1年。
旅団長たちは、泉玉露の合同慰霊祭に参加することにいたしました。
他の旅団員は、郡山の脱原発県民集会や、東京の集会に参加したものが多かったようです。




泉玉露応急仮設住宅自治会主催の合同慰霊祭に向かったのは、ノボさんと息子の大くん、ソメビンに旅団長の4人。
ノボ親子は駐車場の案内を担当してもらいました。実は、近隣からも合同慰霊祭に参加する人たちが予想され、自治会は駐車場を借りたのでありました。






富岡町は行政機関としての町役場を郡山においており、同時刻にそこで町主催の慰霊祭が行われることになっていました。
泉玉露仮設で「合同慰霊祭」が行われると聞いて、「郡山まで行かなくてもいいんだ」と安堵の声が上がったと聞きました。


泉玉露仮設自治会は、自分たち独自に慰霊祭をやると決定して、その準備から私たちウシトラ旅団はお手伝いしていたというわけです。


「東日本大震災 合同慰霊祭」の大きな横断幕を準備していた折に、仮設から連絡が入り、そこに、テモテ教会ボランティアセンターの名と、ウシトラ旅団の名をどうしても入れるようにという話になったのです。
仮設の人々の感謝の気持ちはたしかにありがたくいただきました。
結局、「協力」という形で、われわれウシトラ旅団の名前も入れることになったのです。それでも「いいんだろうか?」という思いが旅団長から去らなかったのでした。






「協力」と「ウシトラ旅団」のその文字を眺めている間に、役員の方とよもやま話のように「これから」について語っておりました。
新たな線引による、帰宅困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域という区切りで、いま一緒に暮らしている人々が、ばらばらにされかねないという恐れを、役員も私たちも感じております。






はっきり言えば、20ミリシーベルト/年の私たちからすれば呆れ返る基準で「元いたところに帰れ」「これ以上の補償はなし」ということになるのではないか。
帰れぬ人も、田畑などの面積の違いなどで、補償の多寡が生じて、大きな格差が生まれてくるのではないか。
行く手には困難が待ち構えている。それをどうしていったらいいのか?
ウシトラのように力なきボランティアには重すぎる課題です。
「でも、俺たちはずっとここに来ますよ。縁ですから」
ふと、気づけば、彼の目は涙で潤んでおりました。
国に棄てられる孤絶感、有効な方針も出さず様子見で、国のその施策に乗っかってしまう町に対する絶望感。
この中でみなさん生きています。


やっぱり、力はなくても俺たちは「一緒に生き抜く!」と言わなきゃいけないと思った瞬間でした。






慰霊祭は午後2時開始。
全体の参加者、およそ100人ほどでしょうか。仮設の外からの(借り上げ住宅など)参加者がおおくいらしたようです。
ソメビンの親父さま、渾身の「合同慰霊祭」横断幕と位牌が備えられ、いわき自由労組が持ってきてくれたテントの中に、いい祭壇が作られていました。
やがて、お坊さんたちがリンを鳴らしながら一列でやってこられ、東日本大震災犠牲者の霊を弔うとわかりやすく祭壇に向かって仏歌のごとくに。(こういうのもあるのだと、旅団長は目からウロコ)。
その中にも、仮設で亡くなった人へ慰霊の言葉がからなず入っていました。
そうなんだよね。この仮設の暮らしの中でなくなる人もいるのです。




やがて般若心経が唱えられ、焼香が始まります。
お坊さんの中にあって、テモテの牧師さんは聖書を手にして、静かにすわっていらっしゃる。
いいなぁ。民衆的ごった煮的慰霊祭。






お坊さん代表の講話は「慰霊はいまをみなさんが生き抜くことの中にある。おとなしくしているばかりというのはおかしい。町議会議員から国会議員に至るまで、まったくやることをやっていない。東電、国にお願いする立場ではないのです。みなさんは要求する立場なんですから」と。
こちらも民衆の中にある宗教者のいうべきことを言っておられた。
   
 ☆早川和尚の法話
http://yourlisten.com/channel/content/117990/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E5%90%88_?cache=1



2時46分、黙祷が始まったとき、あちらこちらで目頭を押さえる人の姿がありました。
原発事故で避難してきたに違いないのですが、富岡町の人々は地震・津波で犠牲者も出しています。
家族や友人を亡くした人たちだったのでしょう。






慰霊祭の前後に祭壇の周辺で語られていた言葉といえば
「町長は花の一つも出さねえで」「町会議員も来やしねえ」
「町(主催)の慰霊祭より、ここの慰霊祭が中心だっぺ。(笑)」
見捨てられているの感覚と、自分たちが自力でやるの心意気が両方存在しているようにみえました。




★キャンドルナイトと「打ち上げ」
夕闇が迫ってくるころ、廃油で作った手作りロウソクを「3.11」の文字に子供たちが並べました。






敬虔な雰囲気にはまるで遠く、並べられたロウソクをポンポン跳ねて飛んでいる子供たち。花火ごっこのような賑やかな声。
少し落ち着けば、大人がじっと、その火文字を見つめている。








郡山の県民集会から泉玉露に破鍋さんたち御一行がついたのは、「打ち上げ」が始まった頃でした。
これも期せずして、いい交流会になりました。




旅団長も本音、生の声を聞く機会が持てました。
こういう仮設の声の聞き取りと、外の経験を擦り合わせる機会を意識的に作らねばと、改めて思わされました。
泉玉露の合同慰霊祭は「これから」に向かう人々の自主的自立的な、見事な慰霊祭でした。









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