2月26日、会津若松にある大熊町の避難者のみなさんの応急仮設住宅へ行ってまいりました。
大熊町、言わずと知れた福島第一原発の立地する町です。
3月12日の水素爆発以来、あの放射性物質を撒き散らしているフクイチ周辺から逃れてきた人たちが住む仮設住宅なのです。
ここで、ウシトラ旅団は放射能汚染問題と、防御のあり方について、出前授業をやりました。
旅団長が今年1月に東北各県を訪れた際に、「大熊町の明日を考える女性の会」の木幡ますみさんから伺った話は、
「大熊町の町民は、放射能汚染の危険性について、おそろしいほど無頓着だ。なんとか勉強する場ができないか」ということだったのです。
「勉強会」の要請を受けていたのが、ようやくこの形で実現できました。
「大熊町の町民は、放射能汚染の危険性について、おそろしいほど無頓着だ。なんとか勉強する場ができないか」ということだったのです。
「勉強会」の要請を受けていたのが、ようやくこの形で実現できました。
ずっと、原発と一緒に生きてきて、町づくりそのものが原発と一体になってきたところです。
大熊町の人々の意識も「原発と一体」になっている人が多くいるようなのでした。
まだ、安全神話の中にいる、とも言えますが、むしろ起こっている事態に、しっかりと目を向ける訓練ができていない、ということのように感じます。
そんな中で、「大熊町の明日を考える女性の会」の人たちが、最初は孤軍奮闘、だんだん数を増やして、「子供や孫の命を守りたい」「大熊町の行く末についてちゃんと考えて発言しよう!」と活動が活発化してきていたのです。
大熊町のとりわけオヤジさんたち、町長と一体になって、原発の町づくりをしてきた意識を変えたい、という思いの活動の大事な一つとして、この学習会は位置づけられました。
どうせやるなら、講師を派遣して、ウシトラ旅団のメンバーの勉強も兼ねて、一緒に学ぼうと旅団長は考えたのであります。
参加者はウシトラメンバー7人に、講師の先生。
朝9時出発。わが輜重輸卒鶴翼隊を組織して、いざ、会津へ。
と思ったら、旅団長思い出すのも嫌なトラブルで出発が1時間も遅れてしまった。
雪を心配し、間に合うだろうかとハラハラしながらの道中でした。
2時開始になんとか間に合って、ほっとしたのも束の間、旅団長が頭に描いていた学習会の内容がガラガラと瓦解する初動の展開に。
「やさしいことばで、放射能汚染の危険のイロハのイと、実践的な暮らし方の知恵に絞ってお願いいたします」の旅団長、伏して願い奉った内容とかけ離れてしまったのでした。
しかっし! ここからがウシトラの力。
長くこの問題を勉強してきたパイン丸と、実践で鍛えられいるメンバーが、フォローまたフォロー。
なんだか掛け合い漫才の如く、考え方や伝えたいことを具体的に「講義」してくれたのでした。
いやいや、驚いた。
ウシトラ旅団のメンバーには、いまや、その道のエキスパートとともいうべき人材がちゃんといるのでありました。
大熊町民にとって、この原発事故以来の状況は、物理的な理屈の問題ではありえず、具体的な被曝のありよう、暮らしの展望、帰るか帰れないか、どうやって生き抜いていくのか、という問題です。
そのことを理解した上で、わかりやすく質問にも答え、両名は漫談勉強会を実現したのでした。
仮設の集会場にはおよそ80人ほど。
壮齢、初老の男性陣、おばあちゃん、いじめられてもめげない女性陣、若い夫婦……。
最初に挨拶された自治会長さんは40年も原発で働いてこられた方でした。
それも各地の原発を歩き、そう、あの「原発ジプシー」と呼ばれるそのままのありようなのです。
お子さん二人も原発労働者だそうです。
他にも原発で生きてきた、町を支えてきたとある種、自負を持って今を生きようとしている人がいるのです。
「原発で線量をたくさん食ってきたけど、俺ぁ、なんともねえぞ」という発言に
旅団長は「あなたが大丈夫だからといって、ほかの人が大丈夫だということにはならないだろ。発症、発病は統計的な問題としてしか現れてこないんだから。いま、勉強したところだろ」なんちゅうヤジなど飛ばして、まわりにいさめられる始末なのでありました。
「体を悪くしたという話は俺の知っているかぎり一人もいない。俺の仲間もピンピンしている」
の発言には、
「あなたは○○に住んでいた●●さんを知っているだろう。●●さんだって知っているだろう。ガンでなくなっているじゃないか」
と具体的な反論が上がってきます
これが大熊のリアリティです。
婦人たちからは
「うちは原発から1km、線量は80(マイクロシーベルト/時)です。どうしたらいいでしょうか。帰れるのでしょうか」
「(こういう家なんだけど)除染と言ったってとても無理そうに思える。やりようがあるんですか」
「子どもや孫のことがどうしたって心配」
本当に切実です。
大熊町はどこへ向かうのか?
大熊町の人々はこれからどうなっていくのか?
大熊町民は自分たちで道を切り開けるのか?
せめてこの人々を政策的に切り捨ててしまうようなことはけっしてあってはならない。
そのためには、大熊町の人々が自分自身で、決断し行動をとっていかなければならないでしょう。
しかし「放射能安全(原発推進派)」と「暮らしの安全・新たな展望派」が、こうして一堂に介して、学び議論しているところに、むしろ旅団長は希望を見ています。
この対立が深まり、にっちもさっちもいかなくなるかもしれません。
でも、けっして忘れていけないのは、どのような考えの持ち主であれ、立場の違う人であれ、同じように放射性物質は降り注いできたという事実です。
被曝とその危険性は立場を超えるのです。
ウシトラ旅団は反原発運動に参加しますが、それと、放射能防御活動と被害者への支援は別物です。
だから、反対派であれ、反対派に反対の立場(いま推進派とはとうてい呼べないと思います)であれ、ウシトラは能う限り一緒に進みたいと思います。
やれることをやり、一緒に進む努力をする。
第2弾、第3弾の勉強会なのか、べつの支援なのか、それも懸命に考えて行きたいと思っています。
もっとも頑固にみえた「反対派に反対」のオヤジさんと、
「また、お邪魔します。今度は酒を飲みに来ます」
と、声をかけたら
「うれしいことをいってくれるねぇ」
と握手してくれました。
数十年、原発のただ中で働いてきた、厚くたくましい手の感触でした。
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