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★一緒に「国会前スピーチエア」へ
10月19日、この日の私の仕事は、冨岡の西山圭さんと、大熊町の木幡ますみさんを案内すること。
ますみさんは院内集会のあとに、某国会議員とお話があるとかで、そちらへ。
旅団長は経産省前で西山さんの到着を待ちました。
日が暮れて、そろそろ坂の上で声が聞こえ始めた頃、迷子になったますみさんが到着、続いて特急列車の中も駆けていたんだよの、西山さんも合流。
ささ、アピールの場へ。
一時期の身動きならぬという賑わいとは違った様子で、むしろ、きちんと話が聞いてもらえるなぁのスピーチへ。
「通りすがりの者です」は通用せず、すぐにますみさんは捕まって、「スピーチしてくれ!」に相成ったようです。
私は「もちろん、そのために来たんだもん。西山さんもやるよな!」。ダメ押しです。
二人とも落ち着いてとてもいい話をしてくれました。
揃って並んで、演壇に立ち、大熊と冨岡の住民の姿を語ってくれました。
「貧乏だと思って、原発を持ってきたんだ。事故後も勝手にしてろ、といわんばかり。私たちは人間なんだ。人間扱いを求める。大熊の人たちは被曝しながら事故処理に当たっている人がたくさんいる。差別でしか成り立たない原発はやめよう」
「原発事故後、仮設も借り上げ住宅の人も大変。いわき市の住民との関係もある。そこではそれぞれがなくてもいい分断に苦しんでいる。福島にいる人、福島から来た人の話をたくさん聞いてやってほしい」
できれば、肉声を聞いてみてくださいな。
http://www.youtube.com/watch?v=kPPHZ4yjEmI&feature=relmfu
★大熊町と富岡町からのゲストは、だから来た
「官邸前行動に行ってみたいんです。とにかく見てみなきゃ」。
そんな話を泉玉露応急仮設住宅にいる西山さんに聞いたのは9月の始め頃だったでしょうか。
「ただ、見るだけじゃなくて、スピーチエリアでしゃべりなよ」という提案も、確定的な答えはなかったけれど、きっとやってくれると期待しておりました。
西山さんも、旅団長も、東京と福島(全国)はもっと話をして互いを知らなければあかんという共通の思いがあったのです。
19日に彼は仕事を切り上げて、東京へ向かうと話を聞いて、せっかくだから、小さな交流会を東京でやろうと言っていたところに、会津若松より電話がかかってきました。
木幡ますみさんが、「どぉも、どぉも、お世話になりますぅ」という例の早口で「東京に行く用事があるので、会いませんか」というお誘いでした。
聞けば、「☆福島の子どもたちに笑顔を☆ ~保養と移動教室の拡充を求める院内集会」という集会に出られるそう。
んなわけで、旅団長はますみさんに合流して、一緒に話を聞いてみようと思ったのでした。
ウシトラが実はまっさきに取り組もうとしたのは福島の子供たちの「集団疎開」でした。
けれども、あれこれ動けども、力なきボランティアの悲しさ、成果は上がりませんでした。
実はそれはどの人たちも同じで、その動きは個々の家庭の決定による「脱出疎開」と「一時保養」という形の取り組みになっていったのでした。
院内集会は会場から溢れる人が出るほど。関心の大きさと取り組んでいる人たちの意識の高さが見えました。
なかでも伊達市の校長や教育委員会の取り組みが光っていました。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012102002000096.html
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1456
官邸前行動がはねた後、小さな交流会をやりました。
十数人の集まりで、ちょっとアルコールなど入れつつ、いい話がたくさんできました。
南相馬市出身のSさんは、震災直後から一年半、ある業界紙に浜通りの状況と動きを書き続けてきた人、YさんやNは経産省テントによく行っている人。生協で働きながらほとんど原発問題のエキスパートになってしまったMさん。いわき市に入り続けているウシトラのメンバーETC 多士済々でありました。
それぞれの問題意識は違うけれども、重なりあっているところはたくさんあって、福島と東京(全国)をどうつなぐかを話すことができました。
この感覚をもって、俺らも、福島へ行かなければならんと、改めて思った一日でした。
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