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2012年1月15日日曜日

1月7日 富岡町 泉玉露仮設・新年もちつき大会(2)


もちつき大会は、当初に旅団長が構想したものより、思いがけぬほどたくさんの人々の協力を得て実現しました。




食材は地元のスーパーのヨークベニマルがすべてを用意してくれました。
自由労組の桂さんによれば、ヨークベニマルは震災当初から避難所に支援物資を入れ続けたのだそうです。
「もともとあそこはそういう活動をしてきたところ。積極的にやってくれますよ」ということだったのです。


そこからおいでになった副店長の挨拶がまたよかった。
「私自身も被災者です。双葉町(といったと思う)から妻と子供は他県に避難し、私だけがいわきにいて働いています。双葉郡はひとつ、やれることはできるだけのことはやります。店長もそうしろと言っていますので、これからも声をかけて下さい」
原発事故後のいわきには、つらさを知る人々の存在や、苦しさに負けぬという意思が集積するようにあるのです。





この泉玉露の高台に住むというケーシー高峰さんも、仮設への差し入れや激励に何度もいらしているようでした。
まあ、ちっとも衰えない。最高の漫談におっかさんたちの爆笑が渦巻いておりました。
きっちりTPP批判をお笑いの中に差し込むあたり、う~ん、やはりそこらのぽっと出タレントとは格が違う。
挨拶をすれば、こんなどこの猫の角かわからぬ旅団長にも、おそろしいほどにきちんと丁寧に「これからもよろしくお願いします」と言われる。
ますますファンになっちまったもんね。




ケーシー高峰さんの漫談が締めに入るや、会場には、お囃子が流れました。
自治会役員のみなさんがどうやら強く望んでいてくれたらしい、獅子舞が躍り込んできたのであります。






正月なんだもん。獅子舞なくしてなんの雑煮ぞ。


実はこれにも出会いがありました。
とにかくあれこれ手蔓をたぐって、旅団長のまったく存じ上げない水戸の方が引き受けてくださったのです。
連絡をとった方が「かつて富岡町に住んでいたことがある」とおっしゃるのでありました。福祉関係のボランティアをやってきたそうですが、既に活動を休止していたのにもかかわらず、「そういうことなら」と、かつて一緒に動いていた水戸獅子舞の横須賀さんにつないで、この日の演舞となりました。


横須賀さんも「自分も被災地支援を一度やりたいと思っていたんだ。ぜひ協力したい」とありがたいお返事。
みなさん、奥様をお連れになり、家族で仮設の方々との交流になりました。


旅団長からの注文はひとつだけ。
「被災して家族を亡くされた人も仮設にはいらっしゃいます。その心の傷があることに配慮いただけるようにお願いいたします」
それが、「新年、おめでとう」ではなく、このお獅子の口から出てきた垂れ幕メッセージとなって現れたのでした。




やってみるもんです。りっぱな心持ちの人たちがまだわれわれの知らないところにいらっしゃる。
誰かがやる気をだせば、そのような心意気のいい人たちをつないで、力を得られるという、うれしい経験でした。


思えば初めていわきに入った昨年の4月始め、あてにした、いわき自由労組にも小名浜地区労にもほとんど既知の人はいませんでした。
にもかかわらず、ぬけぬけと行って「こういうときこそ、組織された労働者は他の人々のために必死に頑張らなければならないのだ!」と旅団長は喚いていたのでした。
それは「復興のその地の軸になる組織、困難を引き受ける気持ちのある個人を意識的に支援する」と定めたウシトラ旅団の「規約」通りの行動でした。


彼らを支援し、かつ、そこに住む人々を彼らに支援してもらう。
方針はそのように立てられていたのです。
首切り問題にさらされていた自由労組、小名浜地区労の人々はそれを乗り越えて、この富岡町の仮設の人々のために「陰の支援」に徹してくれたのでした。
彼らの協力なくして、つまり、テントを集めてくることもスピーカーの準備も、餅つき機、ラジカセ、オーブントースターも、ああ、その他たくさんのもろもろを揃えることができなかったのです。
彼らもまた、こうして仮設の人々と交流して、杵を振るったのでした。





さて、お次はチアリーディング。
あほ旅団長は、チアと聞いた途端に「おおお、寒中太もも、さぞや風のまたさむろう」と、心配していたに、旅団員はその言葉にあらぬ疑いを持つ。
ええ、わかりましたよ。
「すももももも、ふとももももものうち!」。
これでいいか? 旅団長の芸風としては。
なんて馬鹿なことを言っていたら、出番を待つまだ5歳にもなっていなそうな子もいて、「ほれほれ、スマイル! スマイル!」とおじさんはほっぺなどなでなで。






いつしか全員参加、これがいちばんエキサイティングだった。
みんな、踊る踊る。ウシトラも踊る!!




仮設の連絡員・事実上の進行責任者、いちばん大変だった西山さんも「えいっ!」
社会福祉協議会の北崎さんも「イエーィ!」
ノリノリじゃん。



とにかく準備から締めまで、あまりにもスムーズで、予定よりずっとはやくにイベントは盛り上がって、予定時刻より早くに仕舞い作業にかかることになりました。
その脇で、綿菓子屋は名残惜しそうな子供たちを相手に営業が続きました。





いっぽう、その頃、東京本隊を形成した練馬隊の方々はうれしい再会を果たしていたのでありました。
練馬隊は、昨年の夏に「福島こども保養プロジェクト」という、福島の子供たちと母親を秩父に招待して、思いっきり遊んでもらおう企画を成功させた人たちでした。




その試みは、10月から12月にかけても数次にわたって行われ、練馬の東大泉に母子を招き入れたようです。
これに参加した、いわきの母子が「せっかくいわき市にきているのなら」と、駆けつけたのです。
旅団長も、5ヶ月ぶりに会ったぼうやがずいぶん大きくなった姿にちとうるうる。





撤収作業に旅団が入っている間に、このお母さんたちには、津波被災地の方への視察に行っていただきました。
久方ぶりの邂逅となったいわきの母子もなにやら名残惜しいらしく、一緒に行こうかとぼうやたちと相談しておられました。
案内役はもちろんいわき自由労組。こういう行動にはずっと世話になりっぱなしです。
本隊を連れてきた宮下車両長はこんな報告をしてきました。
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後片づけもお任せしてしまいましたが、沿岸部の被災地まわりも、自由労組の加藤副委員長と小名浜地区労議長のお二人にご案内いただきました。
3月11日当日の様子など当事者でなければ語れないお話しを聞かせていただきま
した。

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そうなんだよね。いまはがれきも片付き、更地になってしまった状態だから被災状況はなかなかイメージはわかない。当日に経験した人の話をきくのがいちばん、なんですよ。
実は、視察のために「あの当時の写真を撮ってまとめているものをもっている人はいませんか?」と、旅団長が桂書記長に聞いたときのこと。
「俺も加藤副委員長も、現場に行っても撮れなかったんだよ」。
彼らのショック、これも旅団長には改めて応えたのでした。
(だってよ、桂さん、なんだかボーヨーといつもしてて、んな感じに全然、見えんのだもの)。
ボーヨーはいつも下支え、黙々と後片付けのロープを縛るのだ。






ウシトラ旅団のこの日の行動はまだ終わりません。
すっかり片付いたあとに、「寒いわ」と入っていった第2集会場では、実もちつき大会のジツリキ「主役」たち、おっ母さんたちが「総括会議」のお茶飲み会をやっておいででした。
私たちもお茶を勧められながら、ああ、ありがたや、と思いつつ、そこで話されたことばに心動かされたのでありました。
「今日は本当にみんなとってもいい顔をしていましたもの。震災以来、こんなに笑顔でイキイキしたのを見たのは初めてです。今度は花見ですね。お花見をやりましょう」


ソメビン曰く、「ほろっときちゃうよね」。


働き詰めだった女丈夫たちのために、のぼセンセは臨時のもみもみ班診療室を急いで作りました。




この日の行動に参加した、情けな隊在宅隊員が何でも高尚なエッセーとかを送ってよこしたので、ついでにくっつけておきます。
どうも極楽トンボっぽいんだけど、噂によれば、昔むかしの砂川基地拡張反対闘争やら成田闘争で名を知られた大物だそうな。
旅団長は心が広いから、こういうワケアリもりっぱに更生したとみなしたら、旅団に入れてあげるもんね(笑)。
どう見たって、腰つきヘロヘロの餅つきだったんだけどなぁ。本人、自覚症状がないようで……。
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★泉玉露の餅つき、富岡の人達

泉玉露では、懐かしい人達に出会った感覚だった。
よその土地に行った気がしなかった。
元気のいいおっかあ達。
「良い尻している」とケーシーさんに褒められていた副会長のところのおっかさんなぞ、三里塚でさんざドヤされた浜野のおっかあや、柳川のおっかあそのものだった。
何かやるって時のおっかあ達のエネルギーは、どこでも凄いもんだ。

オヤジさん達はイマイチ元気が無かったが、これはしょうが無い。
事情が事情だ。
「富岡では植木屋をやっていたが、ここでは仕事がないから電気屋を手伝っている」
「そりゃー慣れん仕事だから大変だ」
「子供のいる家は、学校へ通える処や,放射能の少ない処を選んで移動している」
「子供が大事だからね」

花見などで酒でも入ればオッちゃん達も気合いが入るかもしれん。

『在宅を名乗る冷水餅つき隊員』なる表現は遺憾である。
「冷や水餅つき」とは何事か。豪栄道みたいな兄ちゃんには確かに叶わなかった。
けれど、用意されていたせいろの数や餅米の量で、「これは只ならぬやる気だ」と感じた。記録係の任務を直ちに放棄。餅つきの最前線を最後まで離れず、4臼をついたのだ。
70歳にして4臼をついた、国民栄誉賞ものだ。
メールで何時もハイテンションの塩爺の腰砕け餅つきを見たか。
まさになさけな隊だ。浜野のおっかあだったら、
「ナンダその腰つきは。もっと腰を入れろ、金玉ぶら下げてんだろ!」位にはどやしつけたに相違ない。
まあ、人は、もちや、もちやだからね。堅いことは言わない事にしよう。


帰りに「お茶」した際、練馬の女性三人と同席。
「ウシトラの方ですか」
「そうなんですけどウルトラ旅団という名前が子供じみていて困ります」
「ウシトラというのは、東京から見て東日本が十二支の牛と虎の方角だと言うことで、その方向に行くという意味と聞きましたよ」
「え!ウルトラじゃないんですか?良かった。どうもこのネームプレートが恥ずかしかったんですよ」
よその人から所属部隊の名称の由来を教えて貰ってどうするか!隊員教育が悪い。

この2000円のツアーは安い。準備が大変だったろうけど。
スタッフの諸兄姉に深甚なる敬意を表する次第である。
                       柘植洋三
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なんだかんだあったって、とにかく楽しいもちつきでありました。
ここは、なさけな隊ソメビン隊長のことばで締めておきましょう。
それでも、これからたくさんの困難はある。
めげずにあせらず、これからもやっていくぞぉ!!
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泉玉露仮設入りした皆様。お疲れさまでした。
そしてありがとうございました。


思えば3・11来の震災、津波、原発事故。いわきに住む釣友が心配で連絡もつかず、いてもたってもいられない中、風評被害で物資が入らなくなったいわき。
できるだけ西産の野菜、果物、外遊びができないだろう子供の絵本などハッチバックに放り込んで、復旧まもない常磐道を走りました。そんな折「被災地支援をやらないか?」現旅団長から連絡がありました。
その時彼もまた故郷宮崎から米を取り寄せ被災地に送ろうとしていたのでした。そしてすぐさま「ウシトラ旅団」の結成へ。あれから9カ月が経ちます。


今ではすごいメンバーが揃いました。そしてその広がりもまた大変なものです。今日の富岡の人達の笑顔を見ていると、本当にここまでやってきて良かったと素直に思います。


帰りしなの富岡のおとっつあん達の話でもわかるように、今後の彼らの状況は予断をゆるしません。ですから我々の支援もさらに変化するのかも知れません。先の長い戦いは彼らと共にありたい、そう改めて思いました。


今日の成果は誰一人欠けても成し得なかったと言っても言い過ぎではないでしょう。本当にご苦労さまでした。グラッチェ!








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