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2014年11月9日日曜日

当ブログは「ウシトラ旅団」の過去の活動記録です

当ブログはウシトラ旅団の結成から2014年10月までの活動記録です。

公式ブログの発足に伴い、報告掲載を停止いたします。
直近の活動は、
「NPO大震災義援ウシトラ旅団 公式ブログ」
http://ushitoraryodan.blog.fc2.com/
を御覧ください。

2014年10月9日木曜日

大沼・ザベリオ演劇部、泉玉露応急仮設住宅へ


★避難者の話を聞き取りしている大沼高校演劇部
『シュレーディンガーの猫』を上演してきた福島県立大沼高校演劇部顧問の佐藤先生から「泉玉露仮設へ行きたい」と話があったのは8月のことでありました。

「震災から3年経って、『シュレ猫』で描いたときから福島の状況、被災者の状況も変わってきている。その問題を演劇にしたいのです。3年後の弥生を描きます。子供たちは仮設に入って、話を聞いています」というのでした。
ついては、私たちが通ってきた、いわき市にある泉玉露応急仮設住宅に行ってみたい、という要望です。
震災に関わる芝居は、よく大沼高校と共同公演などやっているザベリオ学園も取り組んでおり、今度の泉玉露仮設住宅行きも、ご一緒ということになりました。

「寸劇もやる」ということになって、アレンジして、先日、泉玉露仮設住宅においてきたのが、このチラシです。いつもの「街角カフェ」のおばちゃんたちに、これもチラシを渡しつつ、大沼高校は、特に子供たちの話を聞いてみたいというので、チラシを渡しがてら、子供たちにも声をかけてきました。
実は、仮設から出る家族が増え、回覧板が有効に機能していないようです。
チラシを掲示してもらうことと、翌日、いわき市のお仲間に増刷りして、集会所においてもらう手はずをして、私は会津へと向かいました。


●寸劇の開始は午後1時半です(FBで先に流した、午後2時より30分早くなりました)

★大沼高校演劇部員相手に「レクチャー」もどき
泉玉露行きを前に「講演」がセットになっており、そんな大それたことができるわけはないのですが、なれぬパワーポイントなどもちこんで、自分たちが現地を観てこれまで感じたことを話してきました。
これも佐藤先生の
「子供たちは、仮設に行って泣いて帰ってくるんですよ。それはいいんですが、感情でほだされるだけではダメだと思うんです。どう事態を捉えるのか、といった少し整理した話をしてほしいのです」という要請に応えたものです。


写真に写っているのは開始前の準備中の子供たちですが、このあと、別の部屋で「玉露用寸劇」の練習をやっていた3年生も合流、20人を超える大きな演劇部になったなぁ、の印象を強くします。
彼らは熱心にメモを取りながらつたない話を聞いてくれました。

なんでも、二人一組で多くの仮設住宅に入って話を聞いてきたのだそうです。高校がある会津美里町には、楢葉町の仮設があるのですが、大熊町仮設にも入ったといいますから、会津若松まで足を伸ばしていたのです。
それも、自分たち自身で連絡をしてアポイントを取っての取材だったそうです。先生は何の手出しもなし。そこここで、あの元気のいい大きな挨拶の声が響き渡ったのでしょう。

★泉玉露で演じる『缶けり』
「講演」なるものを終えて、生徒たちと雑談しておりますと、斉藤さんが
「平田さん、『缶けり』は見てもらいましたっけ? あれ、私、好きなんです。もう演らないのかなと思って残念だったので、今度の(泉玉露)公演をすごく楽しみにしてるんです」


そうか……、実は事情があって、主役級の彼女の出演がまだ危ぶまれていて、一年生の代役も準備しているのです。ぜひ、演らせてあげたい。

「上演するためにずいぶんと縮めなければならなかったんだって?」の質問に
丸山さんは
「先生の台本をばんばん切りました。三年生が手を入れて、作った劇になりました」とカラカラと笑い、
斉藤さんは
「自分たちで作り上げていくのがホント楽しんです。ぜひ、観てほしいです」。

二人は『シュレ猫』の重要なキャストでありました。なかなかに気が強く、芯も強く、下級生への「下命」の声は恐ろしく、そしてやさしい子たちでした。一年上の『シュレ猫』主役級メンバーが卒業してからも、この演劇部を中心でひっぱってきた「女傑」でありました。
それぞれに進路を聞きましたが、「おお、そこに挑戦するか!」と応援したくなる道でした。

駅に送ってもらう車中、佐藤先生は
「あれから『シュレ猫』の上演許可が次々に増えてきてるんです。コンクールで負けても、こうして作品が生き残って上演されていくのは初めての例かもしれません。これで、よかったんだ、と思います。私のやっていることは、教育の一環としての演劇です。そして、生徒たちは、福島のことを誇りに思って、使命感をもってやろうとしています」

そうでありたい。賞なんて実はどうでもいい。毀誉褒貶、わがことならず。
生き残って、被災したものの心の中を伝え、人々とつないでいくことだ。
つい、さっき、生徒たちに伝えた「大沼高校演劇部とウシトラ旅団はお仲間だ!」をもう一度、噛み締めた一瞬でした。





















2014年9月26日金曜日

若い衆、頑張れ! これからが楽しみだぞ


●変わってきたということ

8月9月と青少年たちと付き合ってきました。
大震災と原発事故から3年半が経ち、何かが大きく変わろうとしているように感じます。
私達が関係を結んできた仮設住宅の変化は誰の目にも明らかです。
それぞれに決断し、ここから出て、新しい生活に入る人が増え、仮設住宅に住む人の数はどんどん減ってきています。それを見ながら「私はここに残って、最後の一人がどうするのか、見届けます」という人もいます。


行く道が各自にいま違っていても、どこか「性根を据えて」の表情が避難者たちに浮かんでいるのです。
「避難者は疲れている」は間違いではないにせよ、もっと重要な変化について、捉えておかなければならないという気がするのです。

実は、3年半の時の経過で、私達が浜通りの人々と積極的につなごうとしてきた「外の人たち」の変化を確実に感じます。

「遅いよ」とはいうまい。確実に変わってきていることのほうが重要。
一例をあげれば、よく言われる「関西では原発事故の問題はすっかり忘れられている」ということばとは裏腹に、実は今年はずいぶんと関西から自主的にやってきた人たちを浜通りを案内し、福島のさまざま人たちの話を聞いてもらう活動が多かったのです。

もともと私は「風化なんていう前に、やることがあるだろう。それをやりきっていないじゃないか」の立場ですから、「ふくしまを忘れない!」なんてスローガンが集会などに掲げられているのをみるたび、個人的にはちっともいい気分じゃないのです。


われらウシトラに引き寄せて思い返せば、ホントに力がなくて、一人ひとり顔が浮かんでくる人たちに申し訳なくて、それでも、力がなくてもできることをやるしかない、と具体的なことに取り組むことに、ない力を注いできました。
そんなわけで、「とにかく現地を見たい、話を聞きたい」という人達が増えてきたことに、いい意味での変化と可能性を見てきたのでした。

●関西の学生さんたち

同志社大学と大阪大学の学生さんたちは、昨年から何度か浜通りに入ってきています。
「3.11関西学生ネットワーク」というサークルだそうで、今年はたくさんの新入メンバーが揃ったそうで、その人達が自分たちでプランをつくって学びに来ております。



全国から被災地に入り、ボランティアやフィールドワークをやっている学生さんたちは多いのですが、より深く福島の現実に踏み込もうという意欲を感じさせる人たちでした。
もちろん、おじさんからする「不満」は数多く(笑)、「もっとちゃんと現実を構造的、社会的な問題として捉えてくれ」とついお説教をしたり、「お前の気持ちなんか二の次だ。福島に比べれば、そんなもん鴻毛より軽いんだ」なんてことを口走りそうになったりするのです。

それでも、彼らの継続性と、それによる思考の深まりはなかなかのものだと思います。
今回の行動をリードしたのも、今年の春にやってきて、そのまま福島に停滞し、大沼高校演劇部の「シュレ猫」郡山公演を手伝ったり、除染労働者の話を聞いたりしていたK君だったようです。

都路と川内村の境。放射性廃棄物の焼却炉建設問題を抱える。


8月にやってきた女子学生は、予定の行動を終えてから、一人で数週間にわたり福島を歩き回っていました。何かを得るためには、こんな旅がいちばんです。
きっと、ここから私達ウシトラ旅団のおじさんたちとはまったく違った発想と行動が生まれてくるに違いありません。
たぶん、関西で、福島とつながるイベントや活動をやってくれると思いますので、関西のみなさん、協力してやって下さい。




●大沼高校演劇部もまた動く

『シュレーディンガーの猫』で注目を浴びた大沼高校演劇部は、震災から三年後を描く劇にいま取り組んでいます。あのラストで「自ら生き抜く!」の決意を、涙と沈黙の挙手で示した弥生ちゃんの三年後の姿です。
福島が抱えた三年間の社会的な困難の中で、痛めつけられた女の子に弥生ちゃんは接していくのです。舞台は学校に行かない(行けない)子たちが集まるフリースクール。
フリースクールはその名も『パラダイス』といいます。
台本を見てニヤリとしてしまいました。大沼高校演劇部が昨年夏に『シュレ猫』を連日演じたのが下北沢の「楽園」でしたもの。あの公演を支えたおじさんたちには、うれしい話です。



さて、この新しい劇のために、演劇部の子供たちは、避難者たちから聞き取りをしているのです。仮設住宅に入り、話を聞き、泣きべそをかいて帰ってくるそうです。
昨年、彼らの先輩は、この仮設住宅の避難者の前で「やっていいのか?」と悩み、緊張しながら『シュレ猫』を演じていました。。
「被災者が特別扱いされているようで、わたし嫌だな」という台詞を声が震えてうまく言えない、とこれまたホントに泣きべそをかいていたのです。
終わってみれば、「よく私たちの心のうちを言ってくれた。ありがとう」と励ましを受けて、そこで得た自信をもって下北沢へと向かったのでした。
だから、あの劇は、避難者・被災者に励まされて完成した演劇だったともいえます。
いま、もう一度、避難者から話を聞きこんで、新しいところへ演劇部のメンバーは進もうとしています。
新作の稽古。弥生ちゃん役だけが以前の彼女だ。


10月12日には、私たちが入り続けてきたいわき市にある泉玉露仮設住宅に、来てくれるそうです。
「せっかくだから寸劇でいいからやってもらえません?」の要請に、顧問の先生は「おうよ!」と答えてくれました。
一緒に演劇を楽しみ、そして、話を聞かせてもらう、の行動にいたします。
興味のある方、午後2時から開始、20分位の短い劇だそうですが、よかったらどうぞ。
泉玉露仮設住宅は常磐線泉駅から見える仮設住宅です。

阪大・同志社の学生さんと大沼高校演劇部のみなさん

大学生や高校生の磨けばひかる珠のような子たちとウシトラ旅団は出会っています。
彼ら若い衆が自分たちの方法で、状況を切り拓いていくことを応援したい。
そうやって、福島とともに生きる道を辿って行きたいと思うのであります。

ではでは、大沼の『シュレ猫』オリジナルメンバーで、部長だった田口くんの元気な姿にエールをもらいましょう。
大学祭で演劇「蒲田行進曲」のヤスという大役を演じ終えたばかりの田口くんです。



2014年8月17日日曜日

8.14 楢葉町の墓参り随行

★楢葉町の友人の墓参りに同行してきました

お盆に「帰省」……彼の場合、なんて生易しい状況ではありません。
けれども、とにかく墓参りと、これから彼らの親が住んでいた楢葉の家をどうするかを考えるために、自宅に行くというので、一緒におじゃまいたしました。
S夫妻と息子さん、そして私の4人組です(人物写真は今回、掲載しません)。
息子さんは、事故以来、初めての楢葉入りだそうです。





何事もなければ、里山のとてものどかな風景の中にある集合墓地です。
「いいお墓ですねぇ」と声をかけましたが、なんでも、この数日に草が刈られてかなりきれいにされたようす。
地震で墓石が倒壊したままのところもありますし、もとに据えられた石もよくみれば、損傷しているものが多い。

そして、何より、墓地の線量はその周囲より一段と高いのです。残念ながら桁が違う。


そういえば、お墓の片付けに、かなり早い時期に入っていた泉玉露仮設の方が「依頼されたお墓まで辿り着くのに苦労する」と語るとともに、小さな我が子のことを考えてか、帰宅したら直ちに外で着替えていたことを思い出しました。


楢葉町のこの墓地は、富岡町「放射性廃棄物最終処分場」計画地のすぐ前にあります。

というより、彼らの話を聞けば、この処分場計画地への入り口は、楢葉側からしか道がなく、現実的な感覚では「楢葉の処分場」のイメージなのだそうです。
写真の奥にある高台を越えたところが予定地だといいます。
お墓を大事に思う人が多く、「先祖が入っているお墓を、どうしたらいいのか…」という話もよく聞きます。
お盆になれば当たり前に墓参りをやり、そして、子どもや孫が帰省してくるのを心待ちにする、ささやかで何よりも大切な暮らしが、まるごと破壊されて、おじいちゃん、おばあちゃんは仮設住宅や借り上げに住んでいます。
いや、実は、もっと原発事故で惹き起こされた現実は酷くて破滅的でした。


★自宅を見るたびに、心を打ち砕かれていく……

S夫妻の実家に行きました。片付けなければならないと思っても、何から手を付けていいのかわからない、ただ荒れ果てていく実家をどうにもできない状態が続いているようです。
実は、Sさんの父は、震災の二週間前に亡くなって、祭壇も花もおいてあるなかで、避難させられたのでした。
なにもかも分からない混乱のなか、ただ、すぐに戻れるという希望だけをもちながら、年老いた母は、一緒に住んでいたおばと一緒に、隣家の助けで、ここから脱出したのだそうです。




以来、彼女は家へ戻れず、体調を崩し、認知症も出て、Sさんが走り回ってようやく入所できた施設で暮らします。時折、気持ちが高ぶると「わたしはひとりで楢葉に帰って、あの家で暮らす」と言いながら。

Sさんが言います。
「戻って見るたびに惨状は進んでいる。何度も泥棒に入られ母や叔母が持っていた宝石をはじめ金目の物は全てもっていかれたし、そのたびにグチャグチャに散らかっていく。雨漏りやネズミなんかにやられてどんどん家は朽ちていく感じだ」
いえ、それどころか、Sさんの母の病気と老いの急激な進行は原発事故がもたらしたものに違いないのです。Sさんのおじ(父の兄弟)は、避難所でなくなり、おばもまた衰えてなくなったといいます。


原発事故は一家をほとんど壊滅に追い込んだのです。
Sさんの妻の口からは「こんなところに帰れって、よく言える」と町への怒りが噴出します。
起きてきたこと、いまの現実にまともに向きあえば、気が触れてしまいそうになる憤りを、S夫妻は胸の内に抱え込んでいるようです。
これが原発事故以来の、浜通りのひとびとの有り様です。





2014年6月3日火曜日

5.31 原発問題肉薄ツァー


★横浜の「寿」のみなさんと「原発問題肉薄ツァー」

「肉薄ツァー」という名はもちろんウシトラ旅団からの呼び名です。
ちゃんとまじめに「フィールドワーク」や「スタディツァー」と呼んで浜通りの現状を見に行く人々との共同行動です。
今回は、神奈川県の寿町で暮らす日雇労働者や、炊き出しなどの支援をしておられる人たちと、被ばく労働を考えるネットワーク、そして私たちウシトラ旅団三者での現地視察ツァーでした。
実態をいえば、ウシトラはコーディネートする程度の話なのですが、寿の方々は事前に勉強会をやっての参加。
いい加減な「やっちまうか気質」のウシトラ旅団は、実は彼らの爪の垢でも煎じて飲まねばなりません。

現地に向かう車中で活動報告集を見せていただきながら、代表格のKさんに話を伺うと、寿に集まってきている労働組合や宗教者など支援者たちの多様さと、取り組みの自由さに感心と共感を覚えました。
中学生から大学生まで、勉強を兼ねて参加している子たちの感想がまたすばらしい。
「くさい、こわい、と思っていたけど、みんなやさしく接してくれて、寿にまた来たい」という感じなのです。
こういう広がりをつくってきた寿の人たちにこれから教えを請わなければならないと、けっこう愉快な気分で話をしていました。

★木幡ますみさんのガイドで
大熊町から避難して会津若松の仮設住宅に住んでいる木幡ますみさんは、最近、全国あちこちに出没して忙しくしています。
そのマスミンに無理にお願いして、富岡町・大熊町を案内してもらうことにしました。
常磐自動車道の四ッ倉PAで合流、自分たちで車を用意するからと参加してこられた劇団の「野戦の月」のみなさんともここからご一緒しました。
マイクロバスの30人にそんなこんなで人が増え、今度も最終的には40人を超える視察と交流会になりました。
木幡さんは「大熊町には帰れない。新天地での生活再建を!」と、真っ先に言い始めた人でした。
それが正しいのかどうか、私の立場では置いておきますが、女性の中からこういう訴えが出てくることの重要性を感じます。


新天地での生活再建のための要求と、「被爆者手帳」と彼女が呼ぶ健康を守っていこうとする取り組みの重要さです。
男どものだらしなさをときに笑い物にしながら、大熊町の現状をガイドしてくれたマスミンでした。


★公民館でお勉強

・除染労働者の問題
四ッ倉公民館で昼食をとり、お願いしてあった除染労働者(いわき自由労組)の話を聞き、そのあと、ゆっくりと木幡さんに話をしてもらいました。
参加者は、いわゆる重層的下請け構造というやつの実態に、さすがに驚くようです。

世間の常識外のことが、いま、とりわけ原発事故後にはまかり通るようになっています。
雇用関係のごまかし、賃金契約の詐欺的な後だしじゃんけんの設定。
簡単にいえばこういうことです。

何次にもわたる下請けでも、形式上、上の会社が雇っているように装う。一日13000円の契約で来たはずなのに、環境省から危険手当10000円が支払われるようになると、「福島県の最低賃金の6000円程度に危険手当10000円がついて1万6000円。そこから宿泊代や食費が引かれてしまう、はなはだしいのは宿泊地から現場までの交通費を差し引く」なんて例が頻出するようです。
この例でいえば、2万3000円が支払われて当然のはずなのですが、いまや1万6000円程度が標準になっているのだそうです。
声を上げれば、雇う業者ごとまるごと切って捨てられる。そんな理不尽な恐怖の中で、彼らは除染作業を続けているのです。
被ばくをなるだけ避ける装備や、環境も守られていない。これから暑い夏がやってくるのに、ほんとどうなっていくのでしょうか。

なんとか彼らの待遇を守ろうとしているいわき自由労組の訴えでした。



・浜通りの避難者の問題
木幡さんは現在の避難者の様子に語りました。
自殺者が出ていること、仮設住宅では生活が限界に達していること。
中間貯蔵施設建設にからむ諸問題。
「どういう支援が必要か?」という質問には、「忘れないこと。つながること、仮設にお茶でも飲みに来て」と語ります。
確かに何かをやるにしても、そこからしか始らないのです。

行けば、やることがきっと見つかるのだから、裃脱いで、まず交流したらと私も思います。

いわき自由労組書記長の桂さんからはどきりとする報告がありました。
「震災直後がれきを片付ける仕事を請け負っていた一家が、甲状腺がんを発症している」というものでした。
原発事故の直後にプルームは一度、いわき方面に流れています(いわゆる「消えた初期被ばく問題」)、そのときに屋外で数日間にわたって作業を続けていた人がいるのです。
この問題は、慎重にしっかりと調査しておかなければならないと思います。

ウシトラ旅団は、独自に課題を見つけて、新しい行動に取り組んでいますが、心ある人たちと、その課題を見つけ出しに行く「原発問題肉薄ツァー」をこれからも続けるつもりです。
また、少人数でじっくり見、語ってもらうスタディーツァーも始めています。
どうぞ、いらしてください。


最後にお願い。
富岡に入ってくる人たちの中には無防備に「観光」に来ている人がいるようです。
中部地方からのバスと聞きましたが、若いお母さんが赤ちゃんを抱いて現れたという話を聞きました。
確かに空間線量は下がってきていますが、そのような行為はけっしてやってはならないと思います。どんな間違いが起こらないとも限りません。
どうかどうか、目に見えぬ放射能を侮らないでください。





2014年5月19日月曜日

5.18 NPOウシトラ旅団定期総会


★特定非営利活動法人としての第1回定期総会

昨年7月に大震災義援ウシトラ旅団は特定非営利活動法人となり、初めての定期総会を神田神保町 ひまわり館で行うことができました。
なんとか、活動を続けることができたのもひとえに支えてくださった協力者のおかげです。
心よりお礼を申し上げます。

25年度の活動報告、26年度の活動方針など以下の議案が、出席者の全員一致で了承され、新しい一年に踏み出すことになりました。


第一号議案 定款の変更(主たる事務所移転にともなう住所変更)
第二号議案 25年度事業報告・活動計算書承認
第三号議案 上記監査報告
第四号議案 26年度事業計画・活動予算(案)

決議議案は追って法人主管庁である東京都へ報告いたします。またHPで公開いたします。

25年度の活動について、渡辺会員がつくってくれた報告DVDの映像をみながら、「金も力もないのに、よくやったな」というのが偽らざる実感でした。
初めからそんなことは覚悟のうえでしたが、泉玉露仮設を中心にした仮設住宅でのイベント支援活動、子供たちのキャンプ、臨時整骨院の開設、そしてなにより大沼高校演劇部の『シュレーディンガーの猫』公演……、たくさんの人たちの協力を得てはじめてできたことでした。

26年度はもっとやります。力不足は承知の上、それでもやります!
今年度は、より被災現地を知ってもらい、そこから追われてきた人たちの現状を知ってもらう活動に力をいれることにいたします。
また、子供たちへの学習支援活動にも取り組むことになると思います。


★こういう機会だからこその「お勉強」

総会のあと、懇親会をその場でやりました。
お茶とソメビン御母堂の手作りのケーキで、懇親会です。手近で間に合わせてしまう(笑)、いかにもウシトラ旅団であります。
受付をやってくれたソメビン妻と娘っ子もありがとう!

懇親会では、ウシトラの理事でもある認定NPOまちぽっとの伊藤さん、NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク代表の市村さん、お二人のお話を聞きました。



伊藤さんには「損害賠償の基礎知識と、放射性廃棄物中間貯蔵施設建設にからむ浜通りの課題」という内容。
市村さんには「原発事故避難者が抱える問題」といったところです。
当事者たちの現状について、心情まで含めて率直に語っていただきました。
こういったことを知ろうとすることからしか、私たちの活動は始りません。

★私たちの活動を応援してください

監査報告には、「シンプルすぎる会計、金を集めて資金をつくりだしていく事業で活動を継続していく『解決策』が必要である」とする、監査報告にしては率直にして異例、笑いと涙の特別コメントがついてました。
まあ、こんなものです。
けれど、私たちは財政基盤をつくりだしていく努力をして、被災者とともに少しでも一緒に進むことを追求いたします。

ウシトラ旅団の事業経費についての多くは会費・寄付によるものです。より多くの会員登録、拡充を切にお願い致します。
その基礎となる資金的、人的ご協力を皆様にお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

会費・寄付振込:
ゆうちょ銀行
口座記号番号 00190-4-457146
口座名 ウシトラ旅団
*郵便局備え付の振替用紙にてお振込みお願いします
 通信欄に「会費」・「寄付」とご記入ください。

他金融機関から
店名(番) 019
当座
0457146

恐れ入りますが手数料はご負担お願いします。

2014年4月21日月曜日

4.19 泉玉露仮設「花見のうたげ」


★話の花を咲かせましょう!
泉玉露応急仮設住宅自治会の「花見」に行ってきました。
今年は昨年に続いて、仮設住宅の中での開催。それも風が寒いということで、集会場での開催でした。
う~ん、縮小イベントの傾向……、どうなるのかなぁと心配しながら、伺ったのでありました。

ところが、会場はみるみる人でいっぱいに。
席を計算してみれば90席を超えています。立ち働いているおっかさんたちを加えれば100人。
みなさん、「よく集まったなぁ」と嬉しそうなのであります。



わたしは、おっかさんたちがひと働きしたあとに落ち着いた脇の小部屋でご一緒に。
目の前には見事な桜が咲いておりました。
「あははは、姥桜だけどねぇ」と、西原さんがおっしゃる。

ソメビンが手配してくれたウシトラからのお酒「祝鶴亀」の話題でひとしきり。
そうなんですよ、テレビドラマで知られた「夏子の酒」の蔵元ですよ。
初めてのこの仮設住宅の花見は震災の翌年に、いわき市で高台の名所へ行ってやりましたっけ。
そのときも、連絡員の西山さんが「祝鶴亀」を引っさげて、まだ関係の深くなかった住民同士をとりもつために動きまわっておりました。

今年は仕事が控えているとかで、最初の司会と挨拶をして、さっと姿を消したのがさみしいぞ。
でも、「花はないけど話の花を咲かせて下さい」は、いまの仮設住宅に必要なことをしっかり行ってくださったようでした。



会場の第2集会場の入り口には、桜の花がぱっと咲いた自治会旗がしっかり飾られていました。
作っておくもんだ。
夜ノ森の桜がみんなの心にあるというので、このデザインにしたのでありました。
住民が集まるところにこうして役立ててもらえることがなによりです。



準備に大活躍したおっかさん部隊や、役員のみなさんが、集まった人々の数と顔をみながら、「まだまだやることがある!」と、元気がでてきた風でした。

★翌日は「街角カフェへ」

5月の現地ツァーのプランを相談しようと、千賀子さんに電話したら「街角カフェにいますよ。仮設に居るならきなさいよ」とお返事。
泉のどこに街角があるんだ、と探したら、はい、仮設住宅の路地カフェなのでありました。
手作りの漬物、菓子など持ち寄って、日向ぼっこしながらお茶やコーヒーでおしゃべりを楽しみます。



来月、関西からやってくる人たちと交流会などもって頂けますか? の問いに、
「はい、私は施設で働いていたときに震災にあってからのこと、この人は津波に飲み込まれてながされたときのこと、こっちの人は帰還困難区域にある家のこと、この人は富岡で民宿をやっていたときのこと……。なんでも話ができる人がいますからね。どうぞ、連れてきてください」
ありがたい話です。

ウシトラ旅団では、一泊二日くらいの少人数ツァーもプランを立てようとしているところです。
いつでも相談してください。
ツァー参加者には、ゆっくり話をして、彼女たちとつながる道を探してほしいと思います。



しこたま酔っぱらってふらふらと歩けば、子供たちが手を振ってくる。
それを見て、川上会長がおっしゃる。
「これから、どうしていくのか? でも、ほんとにあの子たちのことをいちばんに考えなけりゃいけないと思う」
この子供たちのために何ができるのか、みなさんに一緒に考えてほしい。
おじいちゃんもおばあちゃんも、そう思っているに違いないのです。



2014年4月12日土曜日

『シュレーディンガーの猫』と歩いた一年

ラストステージを終え、会津に帰る直前。公演をサポートしてくれた人々のあいさつを神妙に聞く。
♪ワンツゥスリー、三歩目からは、わたしたち~お別れなんですよ~。
オリジナルメンバーとして『シュレ猫』を引っ張った卒業生3人はやっぱり泣きべそ。


★4月6日 やっぱり涙のラストステージ(スペースゼロ公演)

大沼高校演劇部の『シュレ猫』公演は、3月8日郡山、9日会津若松、4月4日相馬市と周り、6日東京・新宿のスペースゼロで大団円を迎えました。
福島民報と「子供のための舞台芸術創造団体」の尽力で、相馬と東京公演ができて、本当によかった。私から礼を言うのも変なのですが、とにかく言いたい。
ありがとうございました!

6日の舞台は、全国からのお客様を相手に、オリジナルメンバーによる素晴らしいラストステージでした。これまで観てきたどの舞台よりも笑いをとり、そして人々の心を揺さぶるすごい演技でした。

ウシトラが贈った花を観客に渡す任務を負って出口で待ち構えていた1年生


劇中の写真はありません。
彼らに長く付き添ってきたNHKEテレの落合ディレクターが「今日はカメラを回さずに目に焼き付けます」と言っていましたが、こちらもまったく同じ気持ちでした。

上演前に顧問の佐藤先生に「今日は声をかけるからね!」と伝えてありました。
卒業してからも舞台に上がり続けていた3人の「3年生」に叫びたかったのです。
観客席の嗚咽が暗い会場に広がっていき、やがてクライマックス。
いつまでも鳴りやまぬ拍手の中、ウシトラのオジサンたちは「ブラボー」の声を上げ、名前を呼び、感謝の言葉を叫んでいました。

会場の外に出ると、舞台に上がらなかった1年生たちが目に涙をいっぱいにためて、やはりハンカチを目に当てて出てくる客に対応していました。きっとこの子たちも同じ思いだったのでしょう。

★演劇芸術ができること

前日のトークセッションで演劇で被災地支援をやってきた人たちに交じった佐藤先生は示唆に富む発言を多くしておりました。



・原発事故が引き起こされた浜通りから会津は100キロ離れ、目に見える震災被害はなかった。心に傷を持ってやってきた転校生に、どう接したらいいのかわからずに学校には奇妙な静けさがあったこと。

・迷いながらも震災を劇にするために、先生が書いた「こういう芝居を見たくない」というセリフに「こういうふうには思わない。やっていいはずだ。忘れられるのがいちばんつらいんだ」と演劇部に入部した避難転校生が「異議申し立て」をして、彼女の言葉がセリフになっていったこと。

・支援で劇をやったわけではなく、自分たちの目の前にいる避難者の坂本さんのために生徒たちは演じた。「この人のためにやる」という具体的な対象があり、その過程で自分が当事者になり、そんな当事者を増やしていくことが必要なのではないか。

・被災地でも本音を語れずに沈黙する傾向がある。その心の奥をセリフにして、互いの心をつないでいくことが演劇にはできる。こういうことは政治ではできない。そこにこそ演劇を含めた芸術の力があると思う。



1年8カ月、書き込みいっぱい。ぼろぼろの台本。
女優陣にいっつもいじめられてきた部長・たぐち~!


上、大事に使ってきた大竹さんの台本。
下・男の子らしい(?)ずたぼろの田口台。「こら、表紙はどうした」


それらの一連の発言にウシトラ旅団の面々は深く共感していたのでした。隣の席ではソメビンが思わず拍手しながら立ち上がりかけていたのでありました。
東京と福島、浜通りと会津地方、その距離感があればこそ、ある種クールに問題に向かい合い、なおかつ具体的な顔を思い浮かべて、熱に浮かされたようにやれることをやる! 
そんな感じはウシトラ旅団と大沼高校の生徒たちは、よく似ていたのでした。

1年前の3月、いわきで大沼の生徒たちに会って「この子たちはおれたちの同じことを感じ考えている。彼らは仲間だ」と思った直感は正しかったのです。

★ボランティア志願した生徒たち

6日の日程がすべて終わり、会津へと戻る生徒たちを見送った後、東京で新生活を始めた3人とウシトラのおじさん3人は、会場近くのインド料理のお店で食事をしたのでした。
まぁ、名目は御苦労さん会であり、東京暮らし出発の激励会でしたが、3人にゆっくり話を聞いてみたかったのでした。

田口君は大学の演劇科、増井さんはダンスパフォーマンスの専門学校、大竹さんはプロの劇団へ


陽香役の大竹さんが言ってました。
「シュレーディンガーの猫は今日まで1年8カ月やってしまったのですが、そのうち1年はウシトラさんと一緒に歩んだんです」
この日の、あまりに凄い出来の芝居になるまでをウシトラ旅団は随伴しながら観てきたのでした。
より正確にいえば、大沼高校に連絡をとったのが昨年の1月でしたから、かかわりはもう少し長いのですが、よく俺たちはこの演劇に出会えたものだと感謝しています。

佐藤先生は、初めてウシトラ旅団の名前を聞いた時、「東京の劇団が『シュレ猫をやらせてくれ』と言っているのだ、と思ったと笑いながら語ります。
下北沢で演じること、『シュレ猫』がこんなふうに人々に注目されながら成長していくとは、思いもよらなかった、と言います。
成長の過程に付き合えたことはウシトラにとっても喜びでしたが、そんなことは問題外。
あの劇が、この震災で生み出された人間の関係性のもっとも重要なところをしっかりつかんでいたからこその成果だったと心底から思います。

大沼高校演劇部出身の子たちが立ち上げた「Cat Alive」の呼びかけパンフ。 


『シュレ猫』をやり続けた彼らは、自分たちで被災者支援のボランティア団体をつくりました。
その名も 「Cat Alive」  おお、シュレ猫は死なずだ!
会長に大竹さん、副会長に主役・絵里を演じてきた増井さん。
「絶対に忘れない!」という劇中のセリフを足場に、彼らは新しい道に踏み出しました。
こんな動きも、演劇をやるために仮設住宅へ行ったり、そこでじっくり話を聞いたことが、踏み出すきっかけになったようです。
もちろんウシトラ旅団は彼女たちのサポートをやりますし、共同の行動もやっていくつもりです。


「機会があったら『シュレ猫』をまたやる?
3人は間髪をいれずに答えました。
「やります。やりたいです!」











2014年3月19日水曜日

仮設住宅 臨時整骨院開設


3月16日(日)いわき市泉玉露の富岡町応急仮設住宅にて、臨時整骨院が開設されました。
ウシトラ旅団は年間の事業計画に、原発事故からの避難者支援事業として、この「臨時整骨院」を掲げています。

富岡町泉玉露仮設住宅には2011年12月より入り、継続して支援活動を行なってきました。





この臨時整骨院は豊島区で開業している内藤先生の協力で行われています。いつも患者さんとよく話し、その場しのぎの施術ではない、心の通う診察が行われます。

どうして痛くなっているのか。どうすると楽になるのか。日々の生活での注意点。患者さんが納得するように、丁寧な説明が信頼感を生みます。

「地元の先生は問診してくんねえんだ。ちゃっちゃとやって、痛くなったらまた来い。そんな具合なんだよな。」
「先生、こっちで開業してくんねえかな?」こんな声が出ます。


診療待ちのみなさんと色々な話が聞けるのもこの臨時整骨院の特徴です。仮設暮らしの中でみなさんがどう感じているのか、どんな変化があるのか。貴重な情報が得られます。

23年度は東北3県に入ったボランティアは延べ95万8千人、24年度には25万7千人に減り、昨年は11万8千人まで減ったと新聞記事にありました。ここ富岡町の仮設住宅でもやってくるボランティアは激減しています。
新聞によれば、交通費や宿泊費の問題で活動を断念したボランティア団体・グループが非常に多いということです。

ウシトラ旅団のこの「臨時整骨院事業」も赤い羽根ボランティアサポートから助成を受けて実施していますが、これも申請や審査を経て決定されるわけで、ある意味一般の心ある人には一種ハードルとなっているのかもしれません。言ってみれば思い立ってもおいそれとは実行に移せない状況になっている気がします。

「最近ボランティア、来てますか?」
「そういやあ、あまりこないね。」
「災害復興公営住宅の募集が始まるような報道がありますが、町から何か言ってきてますか?」
「何もないよお。私は知らないねえ。」
「小名浜に公営住宅のモデルルームが公開されていますけど、見にいかれました?」
「見たけど、いつどこにできるのかもわかんないのに・・・・ああ、いい部屋ですね、って言うしかないわ・・・・」
「オリンピックで建設関係はみんな東京へ戻ってるって話もあるし・・・・だいぶ遅れるんでないの・・・・」

仮設住宅で避難生活をおくっている人たちに必要なものはなんでしょう?今何をしたらいいのでしょう?

もっともっと考えなくてはいけない。そんな1日でした。

内藤先生、お疲れ様でした。次回もよろしくお願いします。











2014年3月14日金曜日

『シュレ猫』 郡山公演顛末記


★3.8郡山公演

郡山青少年会館で行われた公演は、時折、吹雪いたり晴れ間が出たりという、大変な天候のもと、たくさんの方々に来ていただきました。
午後1時半と5時開演の二度の公演に、合わせて250人位の観客がおいでになったと思います。

この公演は一般のお客さん向けに、福島県内で初めて行われたものでした。
ウシトラ旅団は、どうしても、浜通りから原発事故により避難してきた人と、その町の人々といっしょに観てほしいと思ってきました。

「成功させる会・郡山」には、地元で演劇活動をやっている人たちや、浜通りからの避難者の支援をやっているボランティアの人たちが参加していました。
中でも富岡町(郡山に役場をおいている)に関わる人たちが大きな力になってくれました。

表には現れてこない演劇部スタッフたちも実は素晴らしい子たちです。
公演の意味をよく考え自分たちの仕事に全力!


ウシトラ旅団の活動は富岡町の人々との関係が深く、「シュレ猫」がまた、富岡町から避難した坂本幸さんが大沼高校に転校したことがきっかけで出来た劇。
ありがたいというか、うれしい偶然というか、人のつながりの妙を感じます。

また、クラウドファンディングで応援してくれた人たち、会場で「これからの活動に!」とカンパをしてくださった方々、本当にありがとうございました。

★また一段と、うまくなっていた生徒たち

キャストは昨年8月の下北沢と少し違っていました。
数人の三年生が引退し(というより、掟破りに「どうしてもやりたい!」と数人の三年生がまだ演じている)、そこを一年生が埋めているのですが、いやいや新鮮にして見事に演じます。
三年生や二年生は一皮もふた皮もむけた演技でした。

劇中には笑いを取る場面がけっこうあるのですが、そこを実に軽々とやってのける。凄い。
これがあるからラストの緊張感と感動に観客はやられてしまいます。

克哉を演じる佐瀬くんに、観客の反応は見えてる? と聞いたら
「はい。ひしひしと感じます。舞台にもすすり泣きが聞こえてくるんです」とのこと。
彼はもう一年、高校で勉強して、そして消防士になる大学へ進むそうです。
「震災のことがあって、これなら人の役に立つ仕事ができるかなと思って……」と語ります。

人はどんなふうに励まされ、勇気を湧き上がらせるか。
教えられることの多い感動的なラストシーン。


二年生はもちろん三年生と演技をともにしながら育ってきました。
その彼を劇中では「克哉君、かっこいい!」と言いながら、ふだんは鼻面引き回しているようにみえる(笑)、斎藤さんが、「あんたがいちばん泣いてたもんねぇ」と言ったことがありました。
富岡町から避難してきた坂本さん(彼らより二年先輩)が、自分の体験を話してくれた時のことでした。

彼らはこうして互いをみて育ち、演劇に打ち込んできました。
すばらしい感性と、心が備わっていかないわけがないのです。

★彼らはまた新しい出会いをした

賛助公演の『富岡の空へ』は、わたし達が通っているいわき市の泉玉露仮設住宅にいらした佐藤紫華子さんの詩をもとに創られた朗読劇でした。
今回はそこに、いま郡山で一人で暮らすという吉野明日香さんが自作の詩で参加していました。
事故後やはり何度も引っ越しを重ね、岐阜で母と暮らしていたそうですが、その母を病気でなくしたのだそうです。
これも不思議な縁ですが、吉野さんは坂本幸さんと同じ中学校に通っていて、よく知っていたのです。そんなことを知らずに、ゲネプロ(本番同様の練習)での彼女の詩の朗読に、大沼の女優陣は目頭をそっと拭っていました。

泣かせた娘と、涙を拭っていた女優のタマゴ


そしてまたまた実は……、吉野さんは郡山市の富田仮設住宅敷地内にある「おだがいさまFMラジオ局(富岡臨時災害FM局)」のパーソナリティをやっていて、すべての演技が終わった後、大沼の生徒たちの前にインタビュアーとして登場したのでありました。
前日、そこに伺い、三年生三人が前宣伝をかねて、お世話になったばかりでした。

大沼の生徒は、避難者がたくさん聞いている災害FMで、演じる前の気持ちと、これからの心構えを伝えることができたのです。



前日の三年生は、その後、三春町寄りにある緑が丘仮設住宅へ向かいました。
ここで、いま避難者が直面している課題を、自治会長さんにじっくり聞いたのです。
北崎自治会長は、いつもの笑顔を交えながら、それでもけっこう深刻な実態を隠さずかたってくれました。人の生き死にの話もあり、高校生にはショックだったかもしれませんが、きっとこれは彼らに財産になると思います。
むろん、自治会長は、翌日の公演に仮設の仲間を引き連れて来てくださいました。

★避難者と市民と自分たちを結ぶ

終演後に見送りに立つ生徒たちに、観客が声をかけていく情景は感動的でした。
声をかけずにいられないというふうに、握手をしたり抱きついたり。
数多くのアンケートにはびっしりと書き込みがありました。
東京・下北沢のときと違うのは、そこに書かれている内容がよりリアルで切実なものが多い、ということでしょうか。

受付のところまで来て話していった大熊町の女性がいました。
彼女はこう言って帰ったのです。
「避難先の人たちとの関係にずっと悩み苦しんできました。今日の演劇で、その解決の糸口が見えてきたように思います」。
彼女は涙を流しながらそう言って帰りました。

佐藤先生にその話をすると彼は「そんなつもりじゃなかったんですが……」と、やはり涙ぐんできたそうです。『シュレ猫』は被災者やそれを取り巻く人たちとの関係のなかで育っていく演劇なのでしょう。




生徒のほうも、この演劇が持つ意味をひしひしと感じていたようです。
会津へ送るバスの中で、今回の公演の感想をひとりずつ聞いてみたら、そのことに関わる話が多く出てきました。
素晴らしいサポートをやり、しっかりした意見を述べたスタッフ役も含めて、大沼高校のみんなの感想を紹介したいのですが、涙をのんでいくつかを拾わせてもらいます。

「今回はこれまでと違っていました。ぼくの役はどちらかといえばクールというかネガティブな台詞が多いので自分の心の中と違うのに、傷つけてしまうのではないかと心配してました。でも、最後の反応がすごかったので、ちゃんと伝わったんだなと思いました」(康介役・片桐くん)

「若松より仮設住宅も多いと聞いていたし、不安と緊張が大きかった。でも、ここでやれてよかった。嬉しかったです」(麗華役・丸山さん)

「お客さんとともにわたし達も震災に負けずに前を向いて歩いていきたいと、あらためて思いました。いい公演でした」(聡美役・斎藤さん)

「2月4日にオーデションをやって1ヶ月で弥生役をやりました。ほんとに私がやっていいのかと不安ばかりでした。でも、見送りの時に「ありがとう」って言ってもらえて、すごく励みになりました。がんばってやります」(弥生役・大崎さん)

「被災していないわたし達が演じていても本当のところはなかなか分かるわけがない。でも、その人達といっしょにやることで『やっていける』って思いました。震災のことを伝えていろいろ考えてもらうという役割を果たせそうで、今回は自信につながりました。熱いものも経験出来たし、これからも福島県民として誇りを持って芝居をやり続けたいと思います」(陽佳役・大竹さん)



「三年生三人は仮設住宅におじゃましてきました。そこで現状を聞くことで、今日の芝居は前よりもっと深くできた気がします。被災者の前でやるのはプレッシャーがあったけど、見送りの時に『気持ちを伝えられたんだな』って、ありがたかったです。思いを伝えてそれをシェアすることで、成長していくことができる。わたし達にとってもいい経験でした。大人への階段をちょっとだけ登った公演でした」(絵里役・増井さん)







本当に大沼高校のみなさん、ありがとうございました。
ウシトラのおじさんたちも、この半年の間にこんなに成長したみなさんに再会出来て、ほんとうれしかったです。
4月4日相馬市、4月6日東京の公演、頑張ってください。