★富岡町へ戻り、夜ノ森地区へ
大熊町を後にして、富岡町へ戻りました。
まっすぐに夜ノ森地区へ行き、富岡町民がいつも誇らしげに語る桜並木に入りました。
夜ノ森地区は、富岡駅のあった南のほうより、原発事故前には人口も増えて、活気と勢いのある町だったそうです。
数キロにわたる桜並木と、公園やショッピング施設が人を集めていたといいます。
そこは、いまはこうしてわたしたちが入っていける地区と、立ち入りを許されない地区にバリケードでぶった切られ、人のさんざめきも子どもの声も聞こえてこない家が、静かに建っているだけです。
バリケードの向こうとこちら側と、いったい何が違うのか、という不条理さが迫ってきます。
試験除染で桜は樹皮が剥ぎ取られた |
ツァーバスは、住宅地の細い道を抜けて、富岡町役場を脇を通り、海岸線へ出る道を選びました。
町役場やそれに隣接する文化交流センター「学びの森」を見ながら、海辺へ向います。
「除染をやっていますね。学びの森はりっぱな建物でしょう。原発立地交付金で作られた施設です」(西山さん)。
学びの森は原発事故直後に、避難所および富岡町の対策本部の役割を担ったそうで、ここから田村市などへ避難していった人たちが多くいたようです。
道々、農家らしい家々には、濃いオレンジに色の柿の実がおそろしいほどになっています。周囲は草ぼうぼう。
「ここらあたりは、全部、見事な畑だったのですがねぇ」(西山さん)。
とても畑とは思えない様相なのです。そこにイノシシらしい動物がバスの前を横切り、走りこんで行きます。
★海に向い、第2原発を望む
富岡川の河口近く、りっぱな家だったという前富岡町長の屋敷はすっかり津波で流され、土蔵がひとつ建っているだけ。
津波と原発事故の直後から、芳しからぬ噂が立った現場のひとつだと聞いておりました。
いわき市や原発で避難した町村では、いろんな話が語られており、聞いていれば「さもありなん」と思うものも多いのです。
噂話は、大方、秘密裏のものが津波で表に現れたの、自分と家族だけの安全を図ったの、原発や除染絡みの金儲けの裏事情だの、です。
むろん、それらのほとんどが嘘かホントかわかりませんが、しかし、これらの芳しからぬ噂話は、町民と首長(市長と市民)の関係が、はしなくも現れている気がします。
原発と地域社会の関係の問題は、まだまだ闇に埋もれたところがたくさんあります。これからでもぜひ明らかになってほしい。
さて、前町長の家あたりから岬の突端に上ったところにあったのが、観陽亭でした。
観陽亭は高い崖の上にあり、振り返れば奇岩として有名だったろうそく岩がみえます。折れてしまって、たぶんもう三分の一くらいしか残っていないのではないか。
観陽亭は高い崖の上にあり、振り返れば奇岩として有名だったろうそく岩がみえます。折れてしまって、たぶんもう三分の一くらいしか残っていないのではないか。
20メートルを越える津波が襲い、この観陽亭を全壊させたのです。
堀内さんがここの主人に直に聞いたを語ってくれました。
「いくらなんでもここまで海水が上がってくるなんて思っていなかったから、このテラスのところで海を見ていた。とんでもなく盛り上がって津波がやってくるのが見えて、急いで二階に避難して助かった」。
たぶん、福島でいちばん高い津波が来たところではないかということです。
福島第一原発と第二原発は、たぶん10キロメートルくらいしか離れていません。この岬は、その中間にあります。
南を望めば第二原発がよく見えます。
ガイドの堀内さんがまた語ってくれます。
「第一と第二はほぼ同じ構造。見てのとおりだ。あれが原子炉建屋、その前がタービン建屋。海に張り出している形だっぺ。防備にもならん堤防があるだけでよ、海水を使って冷却をするポンプの電源が海側に置いてあったんだから。他の電源の高さの問題でも、なんにも安全策はなかったといっていいんだよ」。
第二原発も非常用電源を失い、四つの外部電源経路のうちたった一つが生き残ったおかげで大事故を免れたという状態だったなぁ、と事態の恐ろしさを思い返しました。
視察を終えて、第2原発敷地内なのだと思いますが、スクリーニング場へ行き、50人分のタイベックスやマスクなどを始末して、一路、四ツ倉道の駅での昼飯へ。
ここで郡山からいらした人たちと合流、いわき市中央台にある「みんぷく」の研修所へ向いました。
車中は、「堀内さんの話をきかせろ。マイクを持ってくれ」のリクエストが何度もありました。
町の人々の意識、仮設住宅の暮らし、
富岡でのタヌキやキジと暮らしたかつての生活、
損害賠償の話、
津波で失った家族係累の話……。
胸にずんとくる話ばかりでした。
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