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2013年11月18日月曜日

11月4日「福一原発問題肉薄ツァー」(3)



★交流学習会(みんぷく研修所)

大熊町、富岡町の視察を終えて、
楢葉町、広野町の様子を窓越しに眺めながら、いわきへ向かって6号線を南下しました。

いわき市中央台にある3.11被災者を支援する連絡協議会みんぷく研修所での交流学習会は、郡山から参加するという福島連帯労組や、仙台から来たという人に、地元のいわき自由労組、除染労働者などなど、おまけに韓国のテレビ放送局や通信社の記者もくっついて、なんと総勢80人ほどにも膨れ上がったのでした。
「この人数は交流会とは言わない。集会って言うんだ」なんて吐露する人もいて、(そうなんだよな。実は会場のプレハブの底が抜けるのではないかと心配されているんだぁ)と、私も胸の内でつぶやいていたのであります。



みんぷくの赤池さんに原発事故後の浜通りについて、説明をしてもらいました。
赤池さんはこのみんぷくの事務所が立つ中央台(開発新興住宅地)で、震災と原発事故直後から、消防団員として楢葉や広野の被災者の支援活動をやってこられた方です。
いまも被災者がどのような問題を抱えているかをよく知っており、それをどう解決しようとしているかを行政の動き、支援の側の動きの両方から見ておられます。
震災以後の流れと現状について、教えてもらうには最適です。



もう一つのテーマは被曝労働の問題です。
これは、いわき自由労組の書記長の桂さんから、地元の労働組合としての訴えを聞き、除染労働者のAさんと、Bさんに具体的な話を聞きました。

分かっているつもりでも本当に暗澹とした気持ちになり、怒りが湧いてきます。
被曝を軽減するという方策はまるでとられていないも同様、そして待遇も賃金も、ウソで塗り固めたやり方が労働者に押し付けられています。

興味深いやりとりがありました。泉玉露仮設住宅で「損害賠償勉強会」を主催している堀内さんが、除染労働者の問題について労基署の対応を質問したことです。
いわき自由労組・桂さんの「労基署交渉は星の数ほどやってきた。結局、除染手当(危険手当)問題でも管轄外として取り合わない」という回答を聞き、
「自治体へ働きかけが必要だ。自分も町長や職員にこれについて迫るよ。できることをやっていく」と、うれしい応援表明がありました。


除染労働で働いている人の半数は地元の人達です。
つまり、この問題は浜通りの人々の人権の問題でもあり、これからのいわき市や相双八ヶ町村の未来のあり方にもつながっていることなのです。
堀内さんの敏感な反応は被災者が抱えている損害賠償の問題と同様のものだと感じたのだと思います。こうしたことに一緒に知恵を出し、進んでいくことがとても重要だと思います。

11月10日には「町長を呼んで町政懇談会をやるんだよ。今度は逃さねぇよ。みっちりやっからな」という堀内さんをわがマイクロバスで仮設住宅へ送ると、ツァーのみなさんはバスから降りて彼を握手攻め。
堀内さんもいつまでもバスを見送ってくれたのでした。


★帰りのバスで聞いたツァーの感想(ほんの少し)

・もう帰れない、と簡単に自分は言ってきたのだけど、観念的だったと反省した。りっぱな町がここにはあったのだ。その重みをもう一度、噛み締めなければと思った。


・線量の高いところに初めて入る経験をした。除染労働者の話を広く伝えたい。このような企画をまたやってほしい。

・いわきへは震災直後に山谷の支援者も入っていた。県外ボランティアはもういらない、と言われたのだけど、今でも関わりをもちたいと願っている。被災地とつながるために何ができるのかを考え、今後の取組みにつなげていきたい。

・ゴーストタウンのような現場に行ってみて胸に迫ってくるものがあった。むなしさを感じた。被曝労働者が実際の作業でマスクもろくにしていないなど、驚くような話を聞けた。ゼネコンはいま福島関連で物資を収めるときに、「人を準備できるか」と要求しているそうだ。オリンピック準備で労働力を東京へシフトさせざるをえず、福島で働く労働者をどう確保するかの問題が出てきているのではないか。被曝労働者の事も含めて、日本のしくみを変えていくことを考えなければと思う。



・自分は南相馬出身で家も津波にやられているし、集団移転の問題などの課題が切実だった。みんぷくの赤池さんの話がわかりやすかった。原発事故による苦しみが広がっていることと、そこをどうしていくのかについていろんな人が考え関わっていることがわかった。識者と専門分野というだけでなく、生活全般をどうしていくのかに取り組まなければならないと思う。被災者のための新しい住宅、仮の町構想などを誰がどう描くかのか、こういうことで食い違いがある。未来のイメージをどう描くかに注目していきたい。



・貴重な体験をさせてもらった。自分なりに誰かに伝えなければと思った。夜ノ森のサクラの紅葉、こんなにきれいなのに人が住めない。被曝労働者の話はこんなことになっているのかとショック。自分の頭の中にいろんなことがぐちゃぐちゃに出てきているけど、教員としてしっかり考えて、子供たちによりよい未来をつくるようにしていきたい。

・ウシトラ旅団の現地との長い付き合いによる、よく作られたツァーだった。感謝したい自分が住んでいるところで運動することでつながっていくことを目指してきた。職場の地下通路で毎日、福島産の野菜を売っている。12月1日に荒川で反原発の集会をやるので、被曝労働者の話も伝わるようにしていきたい。

・いろんなものがギュッとつまったツァーだった。見て学んだことを組合員に返して、福島の問題が風化させないために、今日のことを消化して明日からの糧にしたい。



・(報道取材のために)福島には10回ほど通ってきたけれど、戻ったら普通の生活があるというギャップの中にいた。これからもとっと頻繁に通いたい。日本でも海外でももっと報道していきたい。

・除染労働の仕組みをきいて深刻な状況と矛盾を知った。盛りだくさんのツァーだった。
・ひとりではなかなか行けないところに案内してくれて感謝。サクラの紅葉、たわわな柿の実、りっぱなお家、すばらしい様子なのに人の姿だけがない。目で見て自分なりに感じることができた。運転手さん、ありがとうございました。

・気持ちが重いまま参加したのだが、来てよかったなと思う。大熊町の様子など、何をやっていったらいいか、突き詰めて考えてみたい。

第2原発近く。常磐線はすっかり草に埋もれて線路が見えない
・盛りだくさんの内容の濃いツァーだった。(6月の)前回バスから降りられなかったところに、今回は降りて、よく見ることができた。赤池さんの話で、被災者が分断されていることがよくわかった。久之浜などいわきのほうがどんどんきれいになって、被災が遠くになる。一方の打ち捨てられている富岡や大熊の様子との対比がすさまじい。被曝労働の問題に関わる活動を積み重ねることが必要だと痛感した。

・福島(浜通り)に来たのは2回目。今回はスケジュールがきちんと立てられて、内容もよかった。これまで津波の被害などみても、当事者じゃないのでどうやっていったらいいのかと思うところが多かった。これから反原発のありかたを考え直していきたい。

・TV、新聞などで見るのと全然違ってリアルに迫ってきた。濃い内容を準備したスタッフと運転手さんにお礼をいいたい。


・風景に打ちのめされた思いがした。富岡の様子と(いわき市の)「道の駅よつくら港」の演出されたような不自然さ。当事者なのに当事者ではないようにされてしまっている気がする。今日のような体験は大事だ。東京でも想像力を研ぎ澄ますことが必要だと思う。被災者との出会いも、3.11直後に足立の武道館で、止められるのを振り切って炊き出しを強引に始めたことでできた。人と出会い、対話をすることをやっていかなければ。みなさんとこれからも協力をしていきたい。

2013年11月11日月曜日

11月4日「福一原発問題肉薄ツァー」(2)



★富岡町へ戻り、夜ノ森地区へ

大熊町を後にして、富岡町へ戻りました。
まっすぐに夜ノ森地区へ行き、富岡町民がいつも誇らしげに語る桜並木に入りました。

夜ノ森地区は、富岡駅のあった南のほうより、原発事故前には人口も増えて、活気と勢いのある町だったそうです。
数キロにわたる桜並木と、公園やショッピング施設が人を集めていたといいます。

そこは、いまはこうしてわたしたちが入っていける地区と、立ち入りを許されない地区にバリケードでぶった切られ、人のさんざめきも子どもの声も聞こえてこない家が、静かに建っているだけです。

バリケードの向こうとこちら側と、いったい何が違うのか、という不条理さが迫ってきます。






試験除染で桜は樹皮が剥ぎ取られた

ツァーバスは、住宅地の細い道を抜けて、富岡町役場を脇を通り、海岸線へ出る道を選びました。
町役場やそれに隣接する文化交流センター「学びの森」を見ながら、海辺へ向います。
「除染をやっていますね。学びの森はりっぱな建物でしょう。原発立地交付金で作られた施設です」(西山さん)。

学びの森は原発事故直後に、避難所および富岡町の対策本部の役割を担ったそうで、ここから田村市などへ避難していった人たちが多くいたようです。

道々、農家らしい家々には、濃いオレンジに色の柿の実がおそろしいほどになっています。周囲は草ぼうぼう。
「ここらあたりは、全部、見事な畑だったのですがねぇ」(西山さん)。
とても畑とは思えない様相なのです。そこにイノシシらしい動物がバスの前を横切り、走りこんで行きます。



 ★海に向い、第2原発を望む

富岡川の河口近く、りっぱな家だったという前富岡町長の屋敷はすっかり津波で流され、土蔵がひとつ建っているだけ。
津波と原発事故の直後から、芳しからぬ噂が立った現場のひとつだと聞いておりました。

いわき市や原発で避難した町村では、いろんな話が語られており、聞いていれば「さもありなん」と思うものも多いのです。
噂話は、大方、秘密裏のものが津波で表に現れたの、自分と家族だけの安全を図ったの、原発や除染絡みの金儲けの裏事情だの、です。

むろん、それらのほとんどが嘘かホントかわかりませんが、しかし、これらの芳しからぬ噂話は、町民と首長(市長と市民)の関係が、はしなくも現れている気がします。
原発と地域社会の関係の問題は、まだまだ闇に埋もれたところがたくさんあります。これからでもぜひ明らかになってほしい。



さて、前町長の家あたりから岬の突端に上ったところにあったのが、観陽亭でした。
観陽亭は高い崖の上にあり、振り返れば奇岩として有名だったろうそく岩がみえます。折れてしまって、たぶんもう三分の一くらいしか残っていないのではないか。



20メートルを越える津波が襲い、この観陽亭を全壊させたのです。
堀内さんがここの主人に直に聞いたを語ってくれました。
「いくらなんでもここまで海水が上がってくるなんて思っていなかったから、このテラスのところで海を見ていた。とんでもなく盛り上がって津波がやってくるのが見えて、急いで二階に避難して助かった」。
たぶん、福島でいちばん高い津波が来たところではないかということです。



福島第一原発と第二原発は、たぶん10キロメートルくらいしか離れていません。この岬は、その中間にあります。
南を望めば第二原発がよく見えます。




ガイドの堀内さんがまた語ってくれます。
「第一と第二はほぼ同じ構造。見てのとおりだ。あれが原子炉建屋、その前がタービン建屋。海に張り出している形だっぺ。防備にもならん堤防があるだけでよ、海水を使って冷却をするポンプの電源が海側に置いてあったんだから。他の電源の高さの問題でも、なんにも安全策はなかったといっていいんだよ」。

第二原発も非常用電源を失い、四つの外部電源経路のうちたった一つが生き残ったおかげで大事故を免れたという状態だったなぁ、と事態の恐ろしさを思い返しました。

視察を終えて、第2原発敷地内なのだと思いますが、スクリーニング場へ行き、50人分のタイベックスやマスクなどを始末して、一路、四ツ倉道の駅での昼飯へ。
ここで郡山からいらした人たちと合流、いわき市中央台にある「みんぷく」の研修所へ向いました。
車中は、「堀内さんの話をきかせろ。マイクを持ってくれ」のリクエストが何度もありました。


町の人々の意識、仮設住宅の暮らし、
富岡でのタヌキやキジと暮らしたかつての生活、
損害賠償の話、
津波で失った家族係累の話……。

胸にずんとくる話ばかりでした。


2013年11月8日金曜日

11月4日「福一原発問題肉薄ツァー」(1)


11月4日の「福一原発問題肉薄ツァー」はまたしても(思いがけずの)大規模なものになりました。おかげで(思いもよらぬ)成功をもたらしてくれました。
 もともと「肉薄ツァー」はウシトラ旅団による、福島県浜通り視察と勉強会を兼ねた企画です。これが、お友達のいる諸団体との共同の試みになっています。
今回は、「被曝労働を考えるネットワーク」「脱原発荒川の会」、「ウシトラ旅団」三者による共同開催としました。

今回のツァーの言い出しっぺは「被曝労働を考えるネットワーク」に関わっている山谷の労働者の方々でした。
山谷で日雇い労働をしていた人たちの中から、除染や原発で働くために福島の浜通りへと行った人もいますし、実は、原発が作られる前から山谷は福島県の浜通りや会津地方の人々と関係が深いようです。
いまは数次にわたる下請けの日雇い労働者が浜通りに入っています。その人々の健康や待遇について、真剣に取り組まなければならない状況です。そのためにとにかく浜通りの現状を視察しなければというわけでした。

そこに荒川区地域で脱原発運動や、福島につながろうとする運動をやってきた「脱原発荒川の会」が応えてくれたのです。
ウシトラ旅団はひたすら現地とのコーディネートです。
ガイド役を探し、視察コースを選定し、交流勉強会の内容にあった講師の心当たりに連絡を取りという作業です。
それでも「行くよ!」といえば、ウシトラ旅団がこれまで関係を作ってきた人々が「俺も連れて行け」「わたしもお願い」という具合で、あっという間に用意したマイクロバスは定員に達し、急遽、もう一台を用意しました。


富岡町へ。タイベックスや手袋などをいただいて、視察地へ向います。

そんなところへ、全労協という労働組合の団体が交流勉強会に合流させろ、というご要求。全労協女性委員会の人たちが前日、郡山で年一回の会議をやって、その後に浜通りに入るプランで動いていたのだそうです。
あちらの現地ガイドは、富岡町から郡山に避難しているTさんと、会津若松にいる大熊町の木幡ますみさんとか。
あららら、マスミンはまたここでも動いているか。んなら、断るわけにもいきません。

日暮里駅前からのマイクロバス2台、ドライバーはわがウシトラ旅団のミヤシタ車両長、もうひとりは練馬で福島の子供たちを呼んで保養活動をやっているグループの伊丹さん。
高速道路の運転だけでなく、現地の細い道に分け入ってからのUターン、崩れかけた崖の上の微速前進、どちらも見事な運転、安定感があります。私たちを安全に運んでくれました。


津波被害そのままの富岡駅で西山さんの説明。
高校時代はここから通うなど、毎日使った駅だったそう。

ガイドは、ウシトラ旅団が入り続けている泉玉露仮設住宅の西山さんと堀内さんにお願いしました。もちろん、二人とも富岡町民です。
広野インターチェンジを降りたところで待ち合わせたら、あら嬉しや。堀内さんが二日前に視察最適地を探してくれていました。
中でも、思いがけず大熊町にも連れて行く、第2原発が望めて富岡の町も一望できる場にも案内してくれる、というのです。
富丘駅前。「このお店はおいしい魚を食べさせてくれたところだったんですよ」(西山さん)

堀内さんは「これから大熊町に向かい、最後はこの左手の岬の突端に案内するかんね。あそこから、第2原発も、富岡町の街中も一望できっから」と指差します。


★大熊町へ
大熊町で、入れるところがあるという話で向いました。
確か、大川原地区のはずです。
車からは降りずに、車止めのあるところ、ぎりぎりまで行きました。
さすがに、これまで通ってきたところより、空間線量が高い。


「こんな町にしたものを処罰しろ!」と大熊町町長よ、なぜ言わない
試験除染と言われていましたが、ここがそれにあたるのでしょうか。山林はいくら除染しても無駄、というのがすでに大方の意見です。
事故を起こした第一原発があった大熊町は、ほとんどの人たちがたとえ政府主導の区分わけ(20ミリシーベルト/年)に従っても帰還できない壊滅状況というべき状況です。
それでも、除染作業は続いています。



お屋敷といいたくなるりっぱな家の前に、柿の実がたわわに実り、いいところだったろうなぁと思う集落に、除染作業らしき人だけがいます。生活の気配がまったくしません。

えい、ものはついでだ。
この日、会津若松の避難先からガイドの一人としてやってきていた、木幡ますみさんがテレビ朝日「朝まで生テレビ」で語った内容をくっつけておきます。(書き起こした人ありがとう)。

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「今日もね、私の所に避難者から電話が来て『私は死にたいっ』ていうから、
『死んでダメなんだよ、何言ってんの』って、怒ってきたんですけれど‥‥。(注・賠償も先の暮らしも見えてこない被災者は、こんな気持ちでいます)

高線量の、例えば大熊町とか、実験的に除染をやりますからって言われて、なんか今回除染した金額が1億5000万円だったみたいなんですよね。
私は無駄な金は使ってほしくないって。
みなさん先ほどからお金のこと言っているでしょ、(注・金がかかるから避難させられないという主張)なんでそんな高線量の所をわざわざ除染して、それは実験ですか?って思うんですよね。
本当に高線量の所に、除染のお金を1億5千万円も使うんだったら、そんなの無駄だから、そういういところは全部切り捨てて、除染をしないで、別の所に住むようにきちんと復興住宅を作るとか、賠償をきちんとするとか。

たとえば私の家は、だいたい1千坪あるんですよね。家屋が3軒あるんですけれど、私の賠償は、1軒の家が70万円なんですよ。土地と家で。70万円で何が建てられる?って思うんですけれども、やっぱりね、もうちょっと高くしてもらえれば。
復興住宅なんかも早く作ってもらえれば、帰る必要もないし、経済的にっていうんだったら、今いるところで働いて、お金を生み出して、税金を払う、これが国のためにはいいんじゃないかと非常に思うんですよね。
わざわざ高いところの線量を落とす必要はありません。
そして、そのために、仮置き場を作る、そしてそれによってお金を出す、こういう無駄なことはもういらないって、私だけじゃないですよ、住民はみんなほとんど言ってます。
だから線量の高いところはやめて、実際に住民が住んでいるところは、除染と言っても消えるものではありませんけれども、移染なんですけれど、それは木の葉をとるとかして。

あと、先程からお金かかるお金かかるって言うけれども、お金をかかるようにしたのは誰なんですか!
原発を作って、そのようにした人たちは誰なんですか!
私たちが望んだわけではないんですよ。
それなのに、そんなのお金かかるから、お金かかるからなんて話はないんですよ。
はっきりいって、ふざけてるんじゃないって、私は思いますよ。

私たちは原発の犠牲者ですよ。
私は原発がしたくて原発の所に来たんじゃないんです。
農業がやりたくて大熊に来たんです。
だから、高線量の所はもうやらないで、人が住んでいるところを除染して、
それでも、私の子供はこれでだめだという人には、保養をさせてほしいと思います。
それのために、やっぱり被災者支援法じゃないですけれども、子どもを育み・育てる。
これが国家の、これからのためになるんじゃないですか。子供を産み育てることが。
子供を産み育てられない社会なんて、みんな嫌になってしまいますよ。
死にたくなってしまいますよ。

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車止めでUターンして、富岡町へと戻りました。
途中、話に聞いていたイノシシがバスの前を横切り、草が伸び放題の畑へと姿を消していきました。

富岡のお話は、また、次回に。