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2013年7月5日金曜日

6.29『原発問題肉薄ツァー』


富岡駅前、久しぶりの「帰宅」だったという冨岡の方と語る

★『原発問題肉薄ツァー』第一弾
ウシトラ・ツァーの第1回目を実施しました。「被ばく労働を考えるネットワーク」の人たちとの共同開催でした。
富岡町が3つの区域に再編され、町民でなくても、警戒区域の前までは行けるということになって、まず、ここまで行って、富岡町のありさまを見てこよう、というのが大きな目的でした。

プランは、富岡町の視察、楢葉町の除染の様子の視察、久ノ浜の津波被害地の今、そして、四倉で福島第一原発の中に入って作業に従事した労働者の話を聞いて、お勉強と交流を行うという盛沢山の内容です。

やりきれるかな、と少し心配はあったのですが、参加者に「行ってよかった」という感想をもらえるものになりました。

富岡町のガイドは「とみおか子ども未来ネットワーク」の渡辺和則さん。
原発事故でいまは埼玉県に避難しており、それでもいわきに新しい事務所を開いて、通いながら法律事務の仕事をやっておられる方です。

富岡駅あたりは津波の被害がそのまま放置されていました。
久しぶりの帰宅をしたという富岡町の方が、母子そしておばあちゃんの三世代で、防護服をまとっていらっしゃっていました。
娘さんが遠くへ行くというので、富岡町の様子を見ておきたかったということのようでした。

津波被害そのまま。ここまで常磐線の運行を伸ばそうという話があるというが……。


「地震でもずいぶんと被害が出たんです。それに私のところもそうなんですが、親戚やら津波でなくなった人もけっこういるのです」
そんな人たちを助けに行きたくても、放射能の危険で、捜索もままならなかったということです。
「ほんとに、あのとき、なんにも準備せずに家を後にして、そのあとは家を打ち捨ててありますから、いまさら除染して、住めといわれても、家は傷んでいて、どうにもなりません」
よく聞く「帰りたくても帰れない」そのままの話でした。


同じく駅前。
富岡駅近く破壊されたまだ津波で破壊された車が放置されている


ガイドの渡辺さんの住居は、駅のすぐ近くにあって、
「あそこが私の住んでいたところです」と指さした先には、ひっくり返った車や、瓦礫が散乱しています。
「壊れたあの赤い車が妻が載っていた車です」と言います。
「妻が助かったのは前の日の喧嘩のおかげ。実家にもどっていたんです」。と笑いました。
奥様は妊娠していたというし、このあとの大混乱の中の避難を考えれば、いっそ運がよかったということなのでしょうか。



夜ノ森の桜並木。実験除染で樹皮を剥がれ、赤い幹の桜が痛々しい
 ★ひっそりと荒廃が進むように見える北部
6号線を北上しながら、夜ノ森へと向かいました。
途中に見えた田圃や畑は荒れて、雑草に覆われ、地震で崩れた家や塀がそのままの姿を晒しています。
夜ノ森は、帰宅困難区域、居住制限区域が接する所、わかりやすく言えば、それより先は許可なく立ち入りができませんよ、というわけです。
いや、少し違う。
ここまでは面倒な手続きなしに、「立入りできますよ」ということなのだろうと、思います。

今回、本来ならば、行くにしてもわたしたちもきちんとタイベックスを着込んで訪れるべき場所に違いないのです。

北上するに従って、車中で線量計のアラームが鳴り響きます。
「金網とバリケードで区切られたあっちとこっちと、みなさん、どれだけの違いがあると思いますか? 同じでしょう。きっと線量も違わないし、住めるというふうにもならない。なのに、賠償などでは大きな違いが出てくるのです」(渡辺さん)

なにか現実感がない。確かにそこに家並みや木々はたっているのですが、映画か何かでみたような、不安を掻き立てられる光景でした。




滞在時間は長く取れるはずがありません。
わたしたち自覚してのおじさんたちはともかく、同乗の若い人たちの被曝はできるだけ小さくしたい。
バスは止まらずぐるっと細い道を巡って、また6号線へ。

おじさんたちだけがバスを降りて、富岡町の役場の前に立ちました。すぐに戻れると思ったまま、ここらに集まり、渋滞におしとどめられながら、車で田村市方向へ延々と逃げていく混乱が始まったのでした。
役場の前に降り立った者たちは、原発立地の自治体が無自覚にとてつもないリスクを背負っていたものだったことを、少しでも感得できるものがないか、と探していた気がします。

富岡町役場の張り紙。2011年3月12日のものではないか?


役場前ベクレル数値

★除染労働実態についてレクチャー
楢葉、広野へと戻りつつ、いわき自由労組のMさんに、除染作業がどのように行われているのかを、教えて頂きました。

バスで通り過ぎるばかりで、写真を撮る暇もなし(いえ、わたしは彼と「次はどうする」と打ち合わせをしつつ、インタビュアーもやっていたのです)。
家屋の除染作業、土壌、刈られた雑草や木々を砕くプラント、どうにもならぬほど積み上げられている楢葉の「汚染物」フレコンバッグの山といったものが窓の向こうに見えていました。

Mさんは、除染労働の現場で働き、全国からやってきている労働者の相談相手をやってきたのでした。

放射能防御のための服装の準備や施設がまともにない状況、自分の安全を守る対策は、労働者個々にただおしつけられているだけで、雇用者はほとんどなんの責任も負おうとしていない実態が語られました。




いわき市に入り、久ノ浜に立ち寄り、家の基礎だけが残っている光景の中にたちました。
しかし、まだ、このほうが、冨岡の静けさより生の感触があります。


久ノ浜の津波被害地 瓦礫が片づけられ家の土台だけが残る

線量は東京と代わりはしない数値になっていました。
「なんか、別世界に行っていたようだな……」と思っているところに
やはり自分の車で参加してくれていた郡山のSさん(福島連帯労組員・除染労働者)が
「風があるのでね。放射性物質は中通りに飛ばされていったんですね。でも、ときおり、やはり風のせいだと思うのですが、数値が上がるんですよ」と言う。

★フクイチで働いていた労働者に話を聞く
「原発問題肉薄ツァー」の締めくくりは、福島第一原発の現場で働いていた二人の労働者に話を聞き、交流することでした。
二人とも携帯求人サイトに応募して、フクイチに入っていた人です。
雇用者、またあまりにひどいやり口で彼らをフクイチの現場に放り込んだ、人買いヤクザの業者と、これからじっくりかまえなければならないので、彼らのことをここで個人特定される内容を書くことができません。
当然、写真も掲載いたしません。

多くの人達には、おそらく想像を絶する有り様です。
口約束での賃金はほとんど守られることはなく、食事もろくに用意されなかったといいます。
事実として人間扱いをしないありようがフクイチではまかり通ってきました。
そうは言っても、二人とも倫理的にもしっかりしているし、なかなかに明るい! 
全国からやってきた、このような人々の労働で、フクイチの危うい均衡は保たれてきたといえます。


思いがけない大人数に膨れ上がった四倉公民館での交流学習会

明らかにできるところを少しだけ書いておきます。

・彼らのようにしてやってきた労働者は、多重下請けになっていて、聞いた中で12次の下請けの人がいた。それでも5次下請けの自分より賃金は高かった。
・ほとんどが違法な雇用状態で、たいがい3次下請けくらいのところに雇われていることになっている。「●●会社の人間として入ってくれ」で労働してきた。いつの間にか間にはいっている会社はまるで知らない会社。

・当初の高線量の中に入り、アラームに追われるような作業もやってきた。「嫌なら行かなくてもいいけれど」の言葉には、仕事をする立場としては拒否することはありえなかった。
・福島第一原発の中は建物がめちゃくちゃに壊れていて、見せられた事故前の見取り図や写真では、何が何だか、さっぱりわからない状態。つまり自分がどこにいるのか、そこに何があるのか理解できないという。
・フェンスで区切られた原発敷地内と外では、線量も何も同じはずなのに、フェンスの外の人の放射能防御(マスクの質など)が格段に落ちる。

といった話が次々に出てきます。

彼らについてももちろんのこと、原発や除染労働で働いている人たちの切実な問題に、いわき自由労組が取り組んでいます。
書記長の桂さんが会場にいたので、これからの取り組みの方向も少し話をしてもらいました。
いま、無法状態が続いている。たとえば環境省が形だけいいことを言っても、現場の労働者を守らなければならないはずの労基署は知らんぷり。
雇い主で一番下にいる「一人親方」とではなく、1次、2次下請け、元請けへと攻めていき、そして、国を相手にするようにしなければならない、と発言しました。

また、いわき市にある福島高専の生徒さんと、彼らをフィールドワークに連れ出していた先生もこの交流学習会に参加してくれました。
地震・津波・原発事故とあまりにひどい被害の中で、避難者の現状について調べ、研究してきたのです。
コミュニティがどのように変容して、どのような問題が起きてきたのかというところに焦点を据えてきたようです。

「コミュニティの崩壊が言われますが、実は震災前にそれはなくなっていたのではないのか、という問題意識がありました
うまくいっているところや、元気な人というのは、こんどの震災前から周囲との関係をきちんともち、活発だった人です。仮設や借り上げの人たちの関係を作っていくには、そこに着目する必要があると思います」と言います。



福島高専の学生さんから話を聞く
どのようにして避難民、原発労働や除染の労働者、そして受け入れる側のいわき市民の人たちとの関係をつくっていくのか、目の前に見える形でつきつけられるような気のする交流会でした。

交流会の場を見渡せば、思いがけず会場はいっぱい。40人くらいは参加していたみたいです。
東京からバスで行った者が28人。
現地で、協力してくれる人たちの参加で膨れ上がったのでした。
ウシトラがいわきを中心に活動をはじめて2年3ヶ月。
さまざまな人達と出会い、このような形の行動ができるようになったのだと、実感しました。
すぐに参加者希望者で満席になったことといい、このような企画を求める人々の気持ちもあります。
そこをテコに、もっとみんなで力を合わせられるようにしたいなぁの「肉薄ツァー」の第1回でありました。

とても好評だったので、きっとまた近いうちに、このような企画をやります。
どうぞ、ご参加下さい。