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2012年11月8日木曜日

11.4 双葉町のみなさんと初めての「損賠勉強会」


★双葉町のみなさんとともに
南台仮設住宅は、昨年9月に勿来インター近くの南台に、双葉町からの避難者用に作られた応急仮設住宅です。
259世帯、かなり大きい仮設ですが、例にもれず高齢者が多い。
ここで支援を行なってきたグループに、「なこそ復興プロジェクト」があります。
彼らが主催者になり、午前10時と午後1時30分からの2回にわけて、勉強会が行われました。

講師の伊藤久雄さんは、まったく疲れも見せず、国の賠償基準の考え方と実際の計算例、これから住民はどのように考えて動いていったらいいのかについて、しっかり話をしてくれました。
午前の部は40人、午後からは20人。
午前と午後の2度続けて、参加された住民の方もいらっしゃいました。
ウシトラ旅団は、ソメビン、会計長、旅団長。講師の友人Hさんが参加してくれました。
うれしいことに、震災直後からボランティアで来ていた筑波大学の学生さんたちが数人も、熱心にメモを取りながら、お勉強。

伊藤さんは「国の賠償基準は、帰還、現価値(残存価値)の補償などが前提になっている。まとまって自分たちで声を上げなければ、住民が求めるような生活再建には進めません」とわかり易く説明。参加者はいちいち頷いていました。
出された質問にはそれぞれの双葉町での生活が如実に反映されます。
「営農休止の補償」「農機具などの補償」など具体的な質問なのです。

最後にお話された、たぶん90歳くらいのおばあちゃんは、涙をこらえて言葉を震わせ、とぎれとぎれに訴えられました。
「私のところは共同墓地ではなく(墓地も大きな補償問題です)、庭にご先祖がいます。私がこうしているのもご先祖さまのおかげです。そこにもう帰れない、としたらどうしたらいいのか」
そして、講師や私たちに、「ありがとうございました」と深々とお辞儀をされました。
その場にいるものがみな胸をつまらせていました。

500年ほどの歴史をそこでつないできた人たちが、苦しみを背負わされています。
とにかく、彼ら彼女らが、自分の思いの丈を話せる場としても、この勉強会をきっかけにしてほしいと願います。


★人のつながりで、支援の拡大を!

勉強会の主催者である「なこそ復興プロジェクト」は、NPO勿来まちづくりサポートセンターが震災直後から被災者支援に動き、彼らが中心になって民間主導「勿来ボラセン」を組織してきました。
夏に解散した後も、復興プロジェクトとして支援を続けていわけです。
まちづくりセンターには、講師の伊藤さんの友人などが以前から関わっており、その方々が復興プロジェクトを支えてきているのです。
このプロジェクトに参加している人が、泉玉露仮設の2回目の勉強会に参加後、伊藤久雄さん・ウシトラに連絡をつけて、南台での勉強会が実現したのでした。

会場となった社協の施設・双葉町サポートセンター「ひだまり」

これまでの活動で、復興プロジェクトと、南台の自治会会長・社協・連絡員などの間には厚い信頼感があるようにみえました。
ウシトラ旅団としても、これから力を合わせながら進みたいと思います。

双葉町は町役場を埼玉県から、このいわき市に持ってくることを決定し、その準備が進んでいるようです。
これからの双葉町(井戸川町長ら)の動きがどうなっていくのかをしっかり見極めながら、進まなければなりません。

★帰りの車中で

今回の行動に参加されたHさんは、阪神淡路・山古志村と被災地に関わり、エキスパートとして、南台の仮設を作るときにも来ていたいた方でした。
定員いっぱいの車中でしたが、いい話がたくさん聞けました。



彼曰く
「阪神の時も『自治』は仮設にありました。それが仮設が閉鎖されることで、なくなっていったのです。今回の福島の場合、町の方針によって少しの違いはありますが、基本的に住民自治の基本である地区のまとまりは、避難でバラバラにされてしまった。
いま、自分たちで意見をまとめ、解決策を探っていく、要求をする、といったことは仮設住宅が果たす役割」。

実は、仮設住宅に入って行く時、旅団長たる私や、なさけな隊のソメビンはそれをかなり強く意識していました。
仮設の外には、その10倍の人数のみなし仮設(借り上げ住宅)住民がいます。
その人達の心も、要求も、纏めあげていくテコとして、仮設の存在を考えていたのです。

これからが正念場です。読者のみなさんの力をお貸しください。
アイデアも、人も、金も!









2012年11月1日木曜日

10.28 泉玉露仮設の肉球班・カッチョイ会議


泉ふるさと祭りから一週間。
泉玉露応急仮設住宅に定期の整体「もみもみ肉球班」入り、これも月に1度の「自治会支援者活動調整委員会」(カッチョイ会議)をやってきました。

★肉球班 臨時整骨院
雨にたたられ、整体の臨時整骨院はいつもより少ない7人のお客様。
こういう日は、ノボさんがわりにゆっくり仮設の人たちと話ができるというメリットもあります。
仮設に入り始めた頃からそうなのですが、仮設の人たちの気持ちをノボさんがもっとも近い位置で聞いてきたのです。
ウシトラのその後の活動は、この基礎の上に構想されてきたといってもいいと思います。




例えば、こういう生活上のリアリスティックな話を、ノボさんは聞き出します。ノボさんの報告より
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旅団長、シゲッチ、と私で玉露に入りました
凄い雨で今回は暇で色々話せて楽しかった


肉の佐川
夫婦2人だとこれで足りてしまうそうです
狭い仮設で揚げものをすると油臭くていやなんだそうです





石屋さん
今年の8月まで二本松の仮設にいたそうです
通勤は片道150kmだったそうです
当時、デコボコの道路を150km、往復300km、大変だったそうです
今は片道50kmで楽だと言っていました





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そろそろ臨時整骨院も終いの準備に入ろうとしていた頃、初めていらした壮年の男性。
作業衣姿でした。その方が、今、楢葉町の墓地の整備に入っている石屋のYさんでした。
墓石は倒れ、ひどい荒れようとか。依頼されたお墓にたどり着くのもままならない。
「下から片付けて行かないと、上にある墓に行き着かないんです」

作業着姿の彼に、「どうぞどうぞそのまま」と薦めたのに「いや、着替えてきますから」と、わざわざ出直してこられたのも、つまりは、楢葉町に入り、作業着に放射性物質が付着していることを気にしておられたのです。
立入り禁止が解除されたところであれ、その近くで暮らし、仕事をするというのは、そういうことです。

さて、整体はいつも第2集会所でやるのですが、隣の小部屋では、ちょうどその時間に、住民自身による自主的な勉強会が開かれていました。
勉強会を終えたHさんが隣の部屋をのぞきに来たそうです。
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臨時整骨院に来たお母さん二人
「勉強会って何の為にするか分からない」と言いました

Hさん
「今、一人10万ずつもらってっぺ
子供4人いて父ちゃん、母ちゃんで月60万
一年で720万、三年間もらって賠償金と合わせてで5.6000万になるべ
アパートに住んでいても十分家買えるべ

(その一方で)夫婦二人で月20万、年240万
三年もらって720万、賠償もらったって1500万ぐれいにしかならないべ
夫婦二人で富岡に家持っていたって
田人(地名です、私が渓流釣りに行くところ)にだって土地と家なんか持てねえぞ」

「10万は精神的苦痛に対しての銭だべ
何で乳飲み子に精神的苦痛があるんだ、抱かれて乳飲んでるだけだべ
年齢で金額が変わんなくては不公平だ」

「申請を出した順に審査していくんだから早く出さないと
自分の順番が来るまで何年もかかっちまうぞ」

「一銭ももらわず死んじゃうより
いくらかでももらって、孫にくれられたほうがいいべ
ばあちゃんからもらった金で家の頭金ができたって言われた方がいいべ
ばあちゃん、迷惑ばかりかけて死んじゃったって言われるよりいいべ
だから、早くやらねえとダメなんだ」

お母さん達に向かって
「政府や東電がやってくれるっておもってっべ」
お母さん達うんとうなずく
Hさん
「んなもん自分で申請出さないと誰もやってくんねえぞ」
「俺は失うものはないから誰に何言われても
悪もんになってもいいんだ
俺はいじめられるのは嫌いだけど
いじめんの好きだからやってんだ」

と言っていました
他にも色々聞きました
まだまだ何にも始まっていないんだなぁと感じた

 ノボ
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Hさんはかなり挑発的な物言いをしますが、問題の本質はよく衝きます。
いま、彼は東電やら政府に対して、もの言いつつ、自分を実例して、交渉のケーススタディづくりをしています。
旅団長は「低位の妥結だけはしないでね(笑)」と、言っています。
本人だって、自分だけの問題ではないことがよくわかっていまので、むしろ、東電や政府のどうしようもないありさまを明らかにするためにやっているようなものです。

★カッチョイ会議
川上会長と連絡員の西山さん、そして旅団長。いつもよりちょっと寂しい出席でした。
けれども、論議する内容はたくさん。充実した会議でした。



・人事問題 ・住宅内の交通安全の工夫
・回覧板の開始(最初の内容の検討)
・芋煮会(11月3日)、小さな作品展(住民作品の展覧、11月3・4日)
・懇親旅行やクリスマス会の打ち合わせ

ウシトラが実際に動いて取り組む内容では、芋煮会のテントなどの準備。クリスマス会の手助けなどが出てきました。
前週の「泉ふるさと祭り」子どもクラフトで、子供たちが参加費として集めたお金を、どう有効に使うかも今後の課題です。
子供たちに話をしてもらって、自分たちで決めてもらおうかと思います。

★被曝記録のために
カッチョイ会議をやっている隣では子供たちが遊んでいました。
ようよう顔を覚えてもらったらしいシゲッチは、AKBソングなど歌いつつ、一緒に元気よく踊っておられました。
子ども(とその親)の中に入っていく工夫は、ソメビンもあれこれやってきて、苦労の連続です。
シゲッチは、「原発事故直後からの生活記録を取らなければ」と主張し、それを残す活動を模索しています。

連絡員の西山さんと相談、見せてもらった県・調査記録の用紙は、えらく難しくなっています。
これもさまざま批判がされており、実際、とても実践的とは思えぬものです。
「福島の子供たちを守れ」の目標、そんなこんなも、こういうところから試行錯誤の連続なのであります。