CONTENTS

ページビューの合計

2011年12月19日月曜日

12.18 いわき泉玉露仮設に初作戦

なさけな隊もみもみ肉球班が、いわき市泉玉露仮設住宅へ初めて入りました。
先にお知らせしたとおり、いわき市のボランティアの体制がかわりつつあり、ウシトラ旅団が主戦場としようと考えていた下神白住宅からの転戦です。




泉玉露仮設は泉駅のすぐ側にあります。
一帯には団地などが並ぶ住宅地です。いわきの人に伺えば、かつては田園地帯であったそうです。
よくこの敷地面積が空いていたといいたくなる、仮設としては好立地でしょうか。
中央台など多くの被災者が集まる仮設住宅は、まだ、生活感のある周囲から切り離されて、「孤立」しているようにも見えるのです。
その点でいえば、きっと恵まれているのでしょうが、逆に言えばずっと以前から住んでいる人たちとの関係をうまく作っていかなければならない、という課題もあるはずです。




ここには富岡町から避難してきた人々がいらっしゃいます。
その数、約400人とききました。
しかしこれもよく話をきけば、生活基盤としての「住」の空間としてあるかといえば、かならずしもそうではない人もいるようで、依然として不安定なままのようです。




家族と別れ別れになっていて、よそに生活の基盤があるといった実態のある方も存在するようです。
それもまぁ当然、次々に爆発していった原発に追われるようにふるさとを去り、係累を頼って避難していたり、あちこちの臨時避難所をてんてんとして来た人たちなのです。
現在でも未来の見通しがはっきりともしないなかでは、なおさら「住」が不安定になります。




わが旅団のもみもみ班は、のぼ・志賀センセ、ソメビン、旅団長の4名の編成でした。 
志賀センセは2度目のいわき入りです。勿来のボラセンがまだ活動し、4月11日のいわき最大の余震でたくさんの被災者が出ていたころのはずです。
あれから、ずいぶんといわきの様子も変わりました。




富岡町の方々がこの泉玉露に来たのは、9月のことだったと思います。
12月になって、仮設住宅で自治会を発足させ、自分たちで生活を立て直していく歩を踏み出しつつあります。
4人の「連絡員」が仮設で選ばれ、町との連絡役、世話役として動き始めました。
その一人Nさんが最初の患者さんでした。
というのも、この仮設にもみもみ肉球班が入るについて、どんな治療をするのかのデモンストレーションをやってほしい、ということだったのです。


避難生活のなかで痛みがぶりかえしたというNさんが、文字通り実験台。
しかし、さすがにのぼセンセ、やさしく腰の治療を終え、あっさりと「これなら、ほかの避難者の人々にも治療をうけてもらったほうがいいですね」ということになったのでした。


Nさんには旅団長もいろいろと話を伺いました。
一軒ずつ声をかけて配布した旅団長作なさけなチラシ
自分たちの力で、とにかくこの仮設住宅での生活をよくしていこう、周囲の人々との関係をきちんとtくっていこう、といった意欲がひしひしと伝わってきました。
年末年始に仮設の詰所が閉鎖されるという話をきいて少し心配していたのですが、彼らが詰所(事務所)の鍵を管理し、大晦日には年越しの集まりも計画しているといいます。
旅団もそれを聞き、ほっとしたのでありました。


ときあたかも、アホ政府が「冷温停止状態・事故収束宣言」をした直後です。
とても帰れないと実感しているNさんたちの、絶望の中に希望を現実の暮らしを通して創りあげようとしている奮闘に、もみもみ肉球班一同、じんとしたのでありました。




一方、私たちの助っ人に駆けつけた、いわき自由労組の3人が、「臨時整骨院」の幟を立て、仮設の一軒一軒に声をかけながら呼び込みチラシを入れてくれました。
ほんとうにありがたい。
これから、こんな仮設の人々とともに手を携えて進んでいく一歩にしたい。
仮設にも原発労働募集のポスター。「原発労働者の権利確立と無用な被爆をさせるな!」の
いわき自由労組のメンバーがびびびっと反応。


治療の間、治療を待つ間の人々と少し話をいたしました。
3月12日から引き続いた原発の水素爆発に追われた混乱の様子は聞いていて、ほんとうに「酷い」としか思えませんでした。
恐怖の中で逃げようとしても、車が渋滞していて、どうにもならず。途中で「もう●●はいっぱい、入ってくるな」と目指した町に拒否され……。
3日間、ただパンだけの食料、老いた身にはとても食べられたものではなく……。
あげくに、その目指した方向は放射能が降り注いでくる方向だった。こんな馬鹿げたことがあるもんか。
俺たちは、こんなことをけっして許してはならん。
ウソと不正義に満ちた「棄民策」はいまも続いているように感じます。
ソメビンが話をきいたというおばあさんの言葉について、下に記録しておきます。


***********************

治療にきた80歳おばあちゃんの話:
数年前に左膝を手術して2本の杖をつきながらの来院。
診察しながらノボ先生が声をかける。
「ここまで歩けるようになって・・・随分努力しましたね。がんばってますね!」
「私は亭主が体をこわしてからずっとのら仕事やりながら、道路工事やら下水工事も、男仕事をいろいろやってきた。だから体はすごく丈夫。足を悪くしてからもがんばって歩いてる。だからこの事故のこともみんなに等しく降っている(放射性物質が)のだから泣き言は言わないで、がんばって生きていきます。」
治療を終えるとまた杖を両の手に持って深々と頭をさげてお礼を。
「またお会いしましょう」と再訪のリクエストをいただいた。
目頭が熱くなった。この原発事故はなんて罪作りなんだろう・・・・そう思った。
***********************


何があってもすごい人はいる。すぐそばに無名でいる。
俺たちが学ばなければいけない人々です。

2011年12月8日木曜日

郡山の「市民を無用な被曝させるな」の声に応えよう!

放射性物質の除染作業による被曝から守るため市民に除染作業をさせない事を求める署名→12/11まで!


旅団員、読者諸君、以下から署名を願うものなり!
署名要請の全文があります。
*************************
★除染活動すればいいってもんじゃない!

ウシトラ旅団でもずっと討論してきているのですが、国・福島県・市町村の行政の多くは、あたかも除染が全ての解決になるかのような「宣伝」をしてきています。
実際には「除染」しか、言うことがない、という無能ぶりのさらけ出しです。

除染(正確には放射線軽減策)は、重要な施策ではありますが、はっきり言って無理な場所もあり、かつ、膨大な金もかかります。
福島県から「人を動かさず」、「対策をとったふりをする」という情けない方策が、この除染の大合唱といえます。

まず、危険なところからは避難! とりわけ子どもや、若い女性は実のところすぐさま疎開・避難することが肝要だと考えて、ウシトラ旅団はそれを要求する主張を掲げてきました。
それでも抱えている事情で、避難できずに人々は不安と苦悩のなかで、動けずにいるのです。
このような人々、福島県内や千葉・埼玉県の汚染度の高いところで暮らさざるをえず、しかも放射線防御のスキルと準備もないまま住民を動員して、除染活動を強制するなど、あってはなりません。

郡山市では「疎開裁判」と呼ばれる避難を求める裁判中が大詰めです。
その最中、市民を外に出したくない連中が、この「除染動員」をやろうとしているのです。
ぜひ、市民を無用な被曝に駆り立てるやり方に反対する署名をお願いいたします。


2011年12月5日月曜日

11.27 小名浜下神白サロンは最終戦?

震災から9ヶ月たっても、ボランティア体制では思いがけないことがたびたび起こります。
つい、この間、「ウシトラ旅団のサロン活動(もみもみ肉球班)は、下神白の住宅へ入り続けよう」と、確認したばかりでした。
前回の10月の訪問から、規模も拡大して、取り組もうとしてきたのです。
しかし、現地のボランティア態勢は変更されつつありました。


これまで、ウシトラ旅団が関わりをもってきたいわき市小名浜地区復興支援ボランティアセンター(小名浜ボラセン)と、いわき市復興支援ボランティアセンター(いわき市ボラセン)との間で役割分担をする構想の進展で、この下神白の担当が基本的にいわき市ボラセン受け持ちになるということなのでした。


小名浜地区ボラセンは、事務所のすぐ近くに設立された「小名浜地区交流サロン(ショッピングモールの2階のスペース)」に力を入れ、同時にいまも増設されている仮設住宅の一部を受け持つということのようです。


これは、いわきの現状を反映したものです。
いわきは海辺で津波被災した人々のほかに、膨大な原発事故由来の避難者の町になりつつあるのです。
双葉町、楢葉町、富岡町、大熊町などからの避難者がたくさんいらしております。会津地方などへ避難していた人々がいわきの仮設に移ってくるなど、およそ2万人の人口増。その傾向は続いています。


そしてまた、いわき市は同様に、市から他のところへ避難していった人たちが認定される原発避難者特例法の指定地でもあります。
さらに、いまも重度の放射能被爆の危険にさらされながら、「福一」の惨状と格闘している労働者、作業者の「出撃地」でもあります。


こうして、二重三重に入り組む事情を抱えています。いわき市はそれらの重圧に何とか耐えて持ちこたえている、というところでしょうか。
そんな事情は、ボラセンの活動を当然にも規定し、その配置地図で、わたしら「力なきボランティア」も、必要とされるところへ転戦をしなければならないということなのかもしれません。


と、いうわけで、下神白住宅へ入るのも、おそらくこれで一区切り。条件が合えば、また、ここへ継続して入ることも追求いたします。






今作戦も前回同様、もみもみ肉球班を押し立ててのサロン活動です。
いつものとおり、集会場の掃除から。
行ってみれば、集会場のガラス窓に、「臨時整骨院」開院のポスターが貼ってありました。
小名浜ボラセンのみなさんに感謝。
さ、さ、みなさん、ソメビン隊長の指示「中学生みたいだけどよぉ、雑巾持参だろうな!」を忘れておりませぬ。


8次を数えた「なさけな隊もみもみ肉球班」小名浜入りは、今回、新隊員を二人加えての8名編成。
もみやの若き精鋭は、「Hi! 鍼灸整骨院」を開いている飯妻センセ(神奈川カナブン隊)と、ボヘミアン的中学英語教師・渡辺センセ(さきたま方面いくじなし隊)の参加であります。


やる気満々! 飯妻センセはさっそく雑巾がけ


駆けつけてくれたいわき自由労組の桂書記長は、実はこういう作業も得意。リフォームの事業をやっているのだ




「いらっしゃいませ~」。番頭役もはまり役。なさけな隊を率いるソメビン隊長が呼び込みです。


予定より早く到着して準備していたら、すぐに、「もみもみ肉球班・臨時整骨院」の幟に引かれて、お客様はいらっしゃる。
「わたしがみんなをつれてきてあげるわよ」と、おばちゃまの励ましの声。ありがとうございます。




  前回、いらした方たちはノボ先生の手の内にあり(笑)、新しくいらした方は、やっぱり彼のゴッドハンドに魅惑されておられます。
なにより、いいのは笑顔になって、「こうしておけばいいだな」と日々の暮らしの中での体のケアを学んでいかれること。
これはやっている側もうれしい。






飯妻センセは、兄弟子(?)のノボ先生の仕事ぶりをじっくりみながら、真剣な目で患者さんにあたる。
「それそれ、その肉球使いが、ここちよい」。


いっぽう、実は前回の体力ぎりぎり、尻尾取り鬼ごっこをまたやるのか、と覚悟していた旅団長の前には、子供たちの集団は現れませんでした。
なんでも近くに新しいショッピング施設が当日に開設されたとかで、子供たちはそろってそちらへ行ったのではないかと、いうのが小名浜ボラセン・人見さんの解説。


かくして、室内でのカード遊びに、小学一年生を相手に、いつも「いくじなし隊」を自称している渡辺センセが奮闘することになったのでした。
もともと、もっとたくさんの子供たちを相手に、「英語で遊ぼう!」をやる予定を立てていたのですが、ちょっとそれが残念。でも、渡辺さんは子供の相手がうまい。


集会場は、この、もみもみ肉球班、ボヘミアン神経衰弱戦、そして、お茶のみサロンが渾然一体。
臨時整骨院にいらした10人は、みなさん、ずっとお茶とお菓子で、あれこれとお話をされていた。
まさに、「サロンさ、よってがっせ」通りの良好状態でした。


奥では「もみもみ肉球班」が治療中、順番待ちや治療を終了したかたは、あれこれとおしゃべり。ここでのおしゃめりが普段のみなさんの暮らしの大変さや、地域と避難者の関係の問題など、多くを私たちが学ぶ場でもあります。



今回の下神白住宅入りは、前回が好評で、現地の要望に応えて実現したものでありました。
そのような形で進むことが大変にありがたかったのですが、冒頭に書いたように、おそらくウシトラ旅団は別の仮設住宅のほうへ力を入れていくことになると思います。


次回は、12月18日、泉玉露仮設住宅へ入ることになりました。
ここは、富岡町から原発事故で追われるようにして、やってこられた方々が住む住宅です。
まだ、できたばかりで、これから支援活動も手をつけていく、という状態のようです。
現地をみながら、じっくりとやっていかなければなりません。


帰りにちょっとだけうれしいことが。
総括会議と称して、軽い飯を食いに入った店で、前回の下神白で会った元気な女の子2人にばったり。お父さんと食事に来ていたようです。
鉄兵の髭に、むさくるしさを感じたか、始めはつれないそぶりをしていましたが、元気ないい挨拶をかわしてくれました。


常磐自動車道で2時間。
解散地点の池袋に下りれば、なんといったらいいのか、いわき市のありようとは別世界。
ボヘミアン渡辺センセ曰く
「ヨーロッパから帰ってきたときに、日本は変に夜が明るすぎるところなんだと、思ったなぁ。こんな暮らしをしなくてもいいのになぁ」。
そんな生活をやり続けて、この始末だ。
たいへんでも、自分らで何とかカタをつけなきゃな。