先にお知らせしたとおり、いわき市のボランティアの体制がかわりつつあり、ウシトラ旅団が主戦場としようと考えていた下神白住宅からの転戦です。
泉玉露仮設は泉駅のすぐ側にあります。
一帯には団地などが並ぶ住宅地です。いわきの人に伺えば、かつては田園地帯であったそうです。
よくこの敷地面積が空いていたといいたくなる、仮設としては好立地でしょうか。
中央台など多くの被災者が集まる仮設住宅は、まだ、生活感のある周囲から切り離されて、「孤立」しているようにも見えるのです。
その点でいえば、きっと恵まれているのでしょうが、逆に言えばずっと以前から住んでいる人たちとの関係をうまく作っていかなければならない、という課題もあるはずです。
ここには富岡町から避難してきた人々がいらっしゃいます。
その数、約400人とききました。
しかしこれもよく話をきけば、生活基盤としての「住」の空間としてあるかといえば、かならずしもそうではない人もいるようで、依然として不安定なままのようです。
家族と別れ別れになっていて、よそに生活の基盤があるといった実態のある方も存在するようです。
それもまぁ当然、次々に爆発していった原発に追われるようにふるさとを去り、係累を頼って避難していたり、あちこちの臨時避難所をてんてんとして来た人たちなのです。
現在でも未来の見通しがはっきりともしないなかでは、なおさら「住」が不安定になります。
わが旅団のもみもみ班は、のぼ・志賀センセ、ソメビン、旅団長の4名の編成でした。
志賀センセは2度目のいわき入りです。勿来のボラセンがまだ活動し、4月11日のいわき最大の余震でたくさんの被災者が出ていたころのはずです。
あれから、ずいぶんといわきの様子も変わりました。
富岡町の方々がこの泉玉露に来たのは、9月のことだったと思います。
12月になって、仮設住宅で自治会を発足させ、自分たちで生活を立て直していく歩を踏み出しつつあります。
4人の「連絡員」が仮設で選ばれ、町との連絡役、世話役として動き始めました。
その一人Nさんが最初の患者さんでした。
というのも、この仮設にもみもみ肉球班が入るについて、どんな治療をするのかのデモンストレーションをやってほしい、ということだったのです。
避難生活のなかで痛みがぶりかえしたというNさんが、文字通り実験台。
しかし、さすがにのぼセンセ、やさしく腰の治療を終え、あっさりと「これなら、ほかの避難者の人々にも治療をうけてもらったほうがいいですね」ということになったのでした。
Nさんには旅団長もいろいろと話を伺いました。
一軒ずつ声をかけて配布した旅団長作なさけなチラシ |
年末年始に仮設の詰所が閉鎖されるという話をきいて少し心配していたのですが、彼らが詰所(事務所)の鍵を管理し、大晦日には年越しの集まりも計画しているといいます。
旅団もそれを聞き、ほっとしたのでありました。
ときあたかも、アホ政府が「冷温停止状態・事故収束宣言」をした直後です。
とても帰れないと実感しているNさんたちの、絶望の中に希望を現実の暮らしを通して創りあげようとしている奮闘に、もみもみ肉球班一同、じんとしたのでありました。
一方、私たちの助っ人に駆けつけた、いわき自由労組の3人が、「臨時整骨院」の幟を立て、仮設の一軒一軒に声をかけながら呼び込みチラシを入れてくれました。
ほんとうにありがたい。
これから、こんな仮設の人々とともに手を携えて進んでいく一歩にしたい。
仮設にも原発労働募集のポスター。「原発労働者の権利確立と無用な被爆をさせるな!」の いわき自由労組のメンバーがびびびっと反応。 |
治療の間、治療を待つ間の人々と少し話をいたしました。
3月12日から引き続いた原発の水素爆発に追われた混乱の様子は聞いていて、ほんとうに「酷い」としか思えませんでした。
恐怖の中で逃げようとしても、車が渋滞していて、どうにもならず。途中で「もう●●はいっぱい、入ってくるな」と目指した町に拒否され……。
3日間、ただパンだけの食料、老いた身にはとても食べられたものではなく……。
あげくに、その目指した方向は放射能が降り注いでくる方向だった。こんな馬鹿げたことがあるもんか。
俺たちは、こんなことをけっして許してはならん。
ウソと不正義に満ちた「棄民策」はいまも続いているように感じます。
ソメビンが話をきいたというおばあさんの言葉について、下に記録しておきます。
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治療にきた80歳おばあちゃんの話:
数年前に左膝を手術して2本の杖をつきながらの来院。
診察しながらノボ先生が声をかける。
「ここまで歩けるようになって・・・随分努力しましたね。がんばってますね!」
「私は亭主が体をこわしてからずっとのら仕事やりながら、道路工事やら下水工事も、男仕事をいろいろやってきた。だから体はすごく丈夫。足を悪くしてからもがんばって歩いてる。だからこの事故のこともみんなに等しく降っている(放射性物質が)のだから泣き言は言わないで、がんばって生きていきます。」
治療を終えるとまた杖を両の手に持って深々と頭をさげてお礼を。
「またお会いしましょう」と再訪のリクエストをいただいた。
目頭が熱くなった。この原発事故はなんて罪作りなんだろう・・・・そう思った。
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何があってもすごい人はいる。すぐそばに無名でいる。
俺たちが学ばなければいけない人々です。