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2011年12月19日月曜日

12.18 いわき泉玉露仮設に初作戦

なさけな隊もみもみ肉球班が、いわき市泉玉露仮設住宅へ初めて入りました。
先にお知らせしたとおり、いわき市のボランティアの体制がかわりつつあり、ウシトラ旅団が主戦場としようと考えていた下神白住宅からの転戦です。




泉玉露仮設は泉駅のすぐ側にあります。
一帯には団地などが並ぶ住宅地です。いわきの人に伺えば、かつては田園地帯であったそうです。
よくこの敷地面積が空いていたといいたくなる、仮設としては好立地でしょうか。
中央台など多くの被災者が集まる仮設住宅は、まだ、生活感のある周囲から切り離されて、「孤立」しているようにも見えるのです。
その点でいえば、きっと恵まれているのでしょうが、逆に言えばずっと以前から住んでいる人たちとの関係をうまく作っていかなければならない、という課題もあるはずです。




ここには富岡町から避難してきた人々がいらっしゃいます。
その数、約400人とききました。
しかしこれもよく話をきけば、生活基盤としての「住」の空間としてあるかといえば、かならずしもそうではない人もいるようで、依然として不安定なままのようです。




家族と別れ別れになっていて、よそに生活の基盤があるといった実態のある方も存在するようです。
それもまぁ当然、次々に爆発していった原発に追われるようにふるさとを去り、係累を頼って避難していたり、あちこちの臨時避難所をてんてんとして来た人たちなのです。
現在でも未来の見通しがはっきりともしないなかでは、なおさら「住」が不安定になります。




わが旅団のもみもみ班は、のぼ・志賀センセ、ソメビン、旅団長の4名の編成でした。 
志賀センセは2度目のいわき入りです。勿来のボラセンがまだ活動し、4月11日のいわき最大の余震でたくさんの被災者が出ていたころのはずです。
あれから、ずいぶんといわきの様子も変わりました。




富岡町の方々がこの泉玉露に来たのは、9月のことだったと思います。
12月になって、仮設住宅で自治会を発足させ、自分たちで生活を立て直していく歩を踏み出しつつあります。
4人の「連絡員」が仮設で選ばれ、町との連絡役、世話役として動き始めました。
その一人Nさんが最初の患者さんでした。
というのも、この仮設にもみもみ肉球班が入るについて、どんな治療をするのかのデモンストレーションをやってほしい、ということだったのです。


避難生活のなかで痛みがぶりかえしたというNさんが、文字通り実験台。
しかし、さすがにのぼセンセ、やさしく腰の治療を終え、あっさりと「これなら、ほかの避難者の人々にも治療をうけてもらったほうがいいですね」ということになったのでした。


Nさんには旅団長もいろいろと話を伺いました。
一軒ずつ声をかけて配布した旅団長作なさけなチラシ
自分たちの力で、とにかくこの仮設住宅での生活をよくしていこう、周囲の人々との関係をきちんとtくっていこう、といった意欲がひしひしと伝わってきました。
年末年始に仮設の詰所が閉鎖されるという話をきいて少し心配していたのですが、彼らが詰所(事務所)の鍵を管理し、大晦日には年越しの集まりも計画しているといいます。
旅団もそれを聞き、ほっとしたのでありました。


ときあたかも、アホ政府が「冷温停止状態・事故収束宣言」をした直後です。
とても帰れないと実感しているNさんたちの、絶望の中に希望を現実の暮らしを通して創りあげようとしている奮闘に、もみもみ肉球班一同、じんとしたのでありました。




一方、私たちの助っ人に駆けつけた、いわき自由労組の3人が、「臨時整骨院」の幟を立て、仮設の一軒一軒に声をかけながら呼び込みチラシを入れてくれました。
ほんとうにありがたい。
これから、こんな仮設の人々とともに手を携えて進んでいく一歩にしたい。
仮設にも原発労働募集のポスター。「原発労働者の権利確立と無用な被爆をさせるな!」の
いわき自由労組のメンバーがびびびっと反応。


治療の間、治療を待つ間の人々と少し話をいたしました。
3月12日から引き続いた原発の水素爆発に追われた混乱の様子は聞いていて、ほんとうに「酷い」としか思えませんでした。
恐怖の中で逃げようとしても、車が渋滞していて、どうにもならず。途中で「もう●●はいっぱい、入ってくるな」と目指した町に拒否され……。
3日間、ただパンだけの食料、老いた身にはとても食べられたものではなく……。
あげくに、その目指した方向は放射能が降り注いでくる方向だった。こんな馬鹿げたことがあるもんか。
俺たちは、こんなことをけっして許してはならん。
ウソと不正義に満ちた「棄民策」はいまも続いているように感じます。
ソメビンが話をきいたというおばあさんの言葉について、下に記録しておきます。


***********************

治療にきた80歳おばあちゃんの話:
数年前に左膝を手術して2本の杖をつきながらの来院。
診察しながらノボ先生が声をかける。
「ここまで歩けるようになって・・・随分努力しましたね。がんばってますね!」
「私は亭主が体をこわしてからずっとのら仕事やりながら、道路工事やら下水工事も、男仕事をいろいろやってきた。だから体はすごく丈夫。足を悪くしてからもがんばって歩いてる。だからこの事故のこともみんなに等しく降っている(放射性物質が)のだから泣き言は言わないで、がんばって生きていきます。」
治療を終えるとまた杖を両の手に持って深々と頭をさげてお礼を。
「またお会いしましょう」と再訪のリクエストをいただいた。
目頭が熱くなった。この原発事故はなんて罪作りなんだろう・・・・そう思った。
***********************


何があってもすごい人はいる。すぐそばに無名でいる。
俺たちが学ばなければいけない人々です。

2011年12月8日木曜日

郡山の「市民を無用な被曝させるな」の声に応えよう!

放射性物質の除染作業による被曝から守るため市民に除染作業をさせない事を求める署名→12/11まで!


旅団員、読者諸君、以下から署名を願うものなり!
署名要請の全文があります。
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★除染活動すればいいってもんじゃない!

ウシトラ旅団でもずっと討論してきているのですが、国・福島県・市町村の行政の多くは、あたかも除染が全ての解決になるかのような「宣伝」をしてきています。
実際には「除染」しか、言うことがない、という無能ぶりのさらけ出しです。

除染(正確には放射線軽減策)は、重要な施策ではありますが、はっきり言って無理な場所もあり、かつ、膨大な金もかかります。
福島県から「人を動かさず」、「対策をとったふりをする」という情けない方策が、この除染の大合唱といえます。

まず、危険なところからは避難! とりわけ子どもや、若い女性は実のところすぐさま疎開・避難することが肝要だと考えて、ウシトラ旅団はそれを要求する主張を掲げてきました。
それでも抱えている事情で、避難できずに人々は不安と苦悩のなかで、動けずにいるのです。
このような人々、福島県内や千葉・埼玉県の汚染度の高いところで暮らさざるをえず、しかも放射線防御のスキルと準備もないまま住民を動員して、除染活動を強制するなど、あってはなりません。

郡山市では「疎開裁判」と呼ばれる避難を求める裁判中が大詰めです。
その最中、市民を外に出したくない連中が、この「除染動員」をやろうとしているのです。
ぜひ、市民を無用な被曝に駆り立てるやり方に反対する署名をお願いいたします。


2011年12月5日月曜日

11.27 小名浜下神白サロンは最終戦?

震災から9ヶ月たっても、ボランティア体制では思いがけないことがたびたび起こります。
つい、この間、「ウシトラ旅団のサロン活動(もみもみ肉球班)は、下神白の住宅へ入り続けよう」と、確認したばかりでした。
前回の10月の訪問から、規模も拡大して、取り組もうとしてきたのです。
しかし、現地のボランティア態勢は変更されつつありました。


これまで、ウシトラ旅団が関わりをもってきたいわき市小名浜地区復興支援ボランティアセンター(小名浜ボラセン)と、いわき市復興支援ボランティアセンター(いわき市ボラセン)との間で役割分担をする構想の進展で、この下神白の担当が基本的にいわき市ボラセン受け持ちになるということなのでした。


小名浜地区ボラセンは、事務所のすぐ近くに設立された「小名浜地区交流サロン(ショッピングモールの2階のスペース)」に力を入れ、同時にいまも増設されている仮設住宅の一部を受け持つということのようです。


これは、いわきの現状を反映したものです。
いわきは海辺で津波被災した人々のほかに、膨大な原発事故由来の避難者の町になりつつあるのです。
双葉町、楢葉町、富岡町、大熊町などからの避難者がたくさんいらしております。会津地方などへ避難していた人々がいわきの仮設に移ってくるなど、およそ2万人の人口増。その傾向は続いています。


そしてまた、いわき市は同様に、市から他のところへ避難していった人たちが認定される原発避難者特例法の指定地でもあります。
さらに、いまも重度の放射能被爆の危険にさらされながら、「福一」の惨状と格闘している労働者、作業者の「出撃地」でもあります。


こうして、二重三重に入り組む事情を抱えています。いわき市はそれらの重圧に何とか耐えて持ちこたえている、というところでしょうか。
そんな事情は、ボラセンの活動を当然にも規定し、その配置地図で、わたしら「力なきボランティア」も、必要とされるところへ転戦をしなければならないということなのかもしれません。


と、いうわけで、下神白住宅へ入るのも、おそらくこれで一区切り。条件が合えば、また、ここへ継続して入ることも追求いたします。






今作戦も前回同様、もみもみ肉球班を押し立ててのサロン活動です。
いつものとおり、集会場の掃除から。
行ってみれば、集会場のガラス窓に、「臨時整骨院」開院のポスターが貼ってありました。
小名浜ボラセンのみなさんに感謝。
さ、さ、みなさん、ソメビン隊長の指示「中学生みたいだけどよぉ、雑巾持参だろうな!」を忘れておりませぬ。


8次を数えた「なさけな隊もみもみ肉球班」小名浜入りは、今回、新隊員を二人加えての8名編成。
もみやの若き精鋭は、「Hi! 鍼灸整骨院」を開いている飯妻センセ(神奈川カナブン隊)と、ボヘミアン的中学英語教師・渡辺センセ(さきたま方面いくじなし隊)の参加であります。


やる気満々! 飯妻センセはさっそく雑巾がけ


駆けつけてくれたいわき自由労組の桂書記長は、実はこういう作業も得意。リフォームの事業をやっているのだ




「いらっしゃいませ~」。番頭役もはまり役。なさけな隊を率いるソメビン隊長が呼び込みです。


予定より早く到着して準備していたら、すぐに、「もみもみ肉球班・臨時整骨院」の幟に引かれて、お客様はいらっしゃる。
「わたしがみんなをつれてきてあげるわよ」と、おばちゃまの励ましの声。ありがとうございます。




  前回、いらした方たちはノボ先生の手の内にあり(笑)、新しくいらした方は、やっぱり彼のゴッドハンドに魅惑されておられます。
なにより、いいのは笑顔になって、「こうしておけばいいだな」と日々の暮らしの中での体のケアを学んでいかれること。
これはやっている側もうれしい。






飯妻センセは、兄弟子(?)のノボ先生の仕事ぶりをじっくりみながら、真剣な目で患者さんにあたる。
「それそれ、その肉球使いが、ここちよい」。


いっぽう、実は前回の体力ぎりぎり、尻尾取り鬼ごっこをまたやるのか、と覚悟していた旅団長の前には、子供たちの集団は現れませんでした。
なんでも近くに新しいショッピング施設が当日に開設されたとかで、子供たちはそろってそちらへ行ったのではないかと、いうのが小名浜ボラセン・人見さんの解説。


かくして、室内でのカード遊びに、小学一年生を相手に、いつも「いくじなし隊」を自称している渡辺センセが奮闘することになったのでした。
もともと、もっとたくさんの子供たちを相手に、「英語で遊ぼう!」をやる予定を立てていたのですが、ちょっとそれが残念。でも、渡辺さんは子供の相手がうまい。


集会場は、この、もみもみ肉球班、ボヘミアン神経衰弱戦、そして、お茶のみサロンが渾然一体。
臨時整骨院にいらした10人は、みなさん、ずっとお茶とお菓子で、あれこれとお話をされていた。
まさに、「サロンさ、よってがっせ」通りの良好状態でした。


奥では「もみもみ肉球班」が治療中、順番待ちや治療を終了したかたは、あれこれとおしゃべり。ここでのおしゃめりが普段のみなさんの暮らしの大変さや、地域と避難者の関係の問題など、多くを私たちが学ぶ場でもあります。



今回の下神白住宅入りは、前回が好評で、現地の要望に応えて実現したものでありました。
そのような形で進むことが大変にありがたかったのですが、冒頭に書いたように、おそらくウシトラ旅団は別の仮設住宅のほうへ力を入れていくことになると思います。


次回は、12月18日、泉玉露仮設住宅へ入ることになりました。
ここは、富岡町から原発事故で追われるようにして、やってこられた方々が住む住宅です。
まだ、できたばかりで、これから支援活動も手をつけていく、という状態のようです。
現地をみながら、じっくりとやっていかなければなりません。


帰りにちょっとだけうれしいことが。
総括会議と称して、軽い飯を食いに入った店で、前回の下神白で会った元気な女の子2人にばったり。お父さんと食事に来ていたようです。
鉄兵の髭に、むさくるしさを感じたか、始めはつれないそぶりをしていましたが、元気ないい挨拶をかわしてくれました。


常磐自動車道で2時間。
解散地点の池袋に下りれば、なんといったらいいのか、いわき市のありようとは別世界。
ボヘミアン渡辺センセ曰く
「ヨーロッパから帰ってきたときに、日本は変に夜が明るすぎるところなんだと、思ったなぁ。こんな暮らしをしなくてもいいのになぁ」。
そんな生活をやり続けて、この始末だ。
たいへんでも、自分らで何とかカタをつけなきゃな。










2011年11月3日木曜日

10.27~29 座り込み 会計長的報告記

27日から29日まで3日間、「原発いらない福島の女たち」100人の座り込みが、経産省前の反原発テントを中心に堂々と闘われました。
これに熱いエールを贈らないでなんとする!! ということでウシトラ旅団もギャラリーとなって座り込みを支える(?)べく、連日周囲をウロウロしまわったんでありますが、以下その報告。


27日午前10時。経産省前にはすでに「恕 福島隊」の大のぼりが並んでいました。
このオープニングには座り込み当事者だけでなくギャラリーを含めて700人以上集まっていたそうな。佐藤幸子さんの座り込み開始宣言を兼ねた記者会見、「子供たちは7ヶ月間、炎の海に子供たちを放置されてきた。私たちは怒りをこめて行動を起こす」。


座り込みの輪が、反原発テントを真ん中に両側に拡がっていきます。
目を引いたのは「安全は大うそ 原発やめろ」の横長プラカードのおばあちゃん、聞けば御年88歳。


テント脇では、経産省包囲に使う毛糸編みがさっそく始まりました。




二日目。応援に駆けつけた人たちのエール、歌や踊りのパフォーマンスが行われているテント前ひろば。その他の時間は女たちが代わる代わるマイクを握ってリレートークをしています。


「私たちは思いをとどけるために福島から東京に来ました。そして今、ここに座り込んでいます。座り込んで呼びかけています。なのに!どうして!誰も一人も話を聞きに来ようとする人がいないんですか!おい、官僚!お~い、政治家!…」


座り込んでいる女たちは、政治グループでも玄人じみた運動家グループでもないんだとホントに思いました。一人ひとり、ふるえる怒りをぶつけに来たのです。


霞ヶ関はこの呼びかけに「冷たい無視」を通し抜きました。議員は確かに2人(福島瑞穂、服部良一)来たけれど、あとの720人は知らないふりだ。フクシマの現実に向かい合おうともせず議員たちが見ている現実とは一体何だろう。「棄民」に手を貸しているのはお前たちだ。




三日目。経産省前出発~東電~銀座~東京駅~常盤公園までを歩く締め括りパレードには約千人が集まりました。




3日間、編み貯め、結び貯めてきた毛糸紐。この毛糸紐で経産省包囲を開始。紐を持って、引っ張れ、引っ張るな、先っぽが見えない、人が足りない……。すったもんだの末に、ついに経産省包囲が実現。女たちの編んだ毛糸紐と人間の鎖。経産省の周りを歓声が巡りました。


日比谷公園かもめ広場でのエンディングセレモニーで、黒田節子さんの挨拶。




「フクシマの女は怒っている、この怒りを伝えに東京に来ました。思いっきりデモをしました。思いっきり訴えました。福島瑞穂さんが頑張って交渉してくれたお陰で、首相官邸にも行って制限時間20分と言われたけど私は40分話し続けてきました。首相には合わせてもらえなかったけど、フクシマの女は怒っているんだ。これからも黙っていないし、これからも負けない」


女たちを無視した首相のドジョウ根性とは、被災民と同じ泥をかぶって泳ぐドジョウではない。せいぜい、政敵相手に腰低く根回しし腹で舌を出す程度の薄汚いドジョウ根性だ。いつか報いをくれてやる。


「私たちは今、静かに怒りを燃やす東北の鬼です」武藤類子さんが9.19明治公園で発したメッセージを思い出した。


福島県議選に立候補する佐々木慶子さんは「地盤もお金もありません、でも、頑張ります!」と言って握りこぶしを上げてみせた。


経産省を包囲した毛糸紐の玉が、福島の女たちから「全国の女たち」へ引き渡され、座り込みは翌日から11月5日まで全国の女たちが担うことになりました。


そして「故郷」の大合唱。「♪兎追いし かの山~♪」近頃すっかり涙腺の弱くなったオヤジはこういうシーンに弱くって…。セレモニーは終わりましたが、かもめ広場にはいつまでも交流の人の輪が残り続けていました。






女たちの会のブログからのコピペです。


27日 県内70人 県外735人


28日 県内65人 県外608人


29日 県内75人 県外818人


合計    2371人






この日、大切な次の目標が示されました。「3.11 郡山で2万人集会を成功させよう。今度は全国からフクシマへ。」

2011年10月27日木曜日

「ふくしまの女性100人の座り込み」が始まった

本日午前10時、経済産業省前で、福島の女性たちが座り込みを開始しました。
掲げる主張は「原発いらない!」
ウシトラ旅団も及ばずながらご支援に。


旅団長以下、現場待ち合わせの三人の旅団員が着いたとき、黄色いリボンや旗で飾った女性たちが、もうぎっしりと経産省正門から塀沿いに立ち、座り、埋め尽くしておりました。
いいよね。「ついに…、女たちは立ち上がり、そして座り込む」の呼びかけチラシそのままの光景がそこにあったのでした。


まもなく、昔風に言えば、門前集会。
おお、旅団長も密かなるファンとなっている三人の女丈夫(冗談です!)が、陣取って、これからの三日間の座り込みを「やっちゃうよ」宣言。
お三人とは、「子どもたちを放射能から守ろう福島ネット」の佐藤幸子さん、あの9.19明治公園集会の折、福島アピールをした武藤類子さん、そして、初めて福島市で6月に反原発の大きな集会をリードした佐々木慶子さん、でした。


この時点で、参加者はおよそ500人くらいもいるでしょうか。
柔らかく、明るい、座り込み行動の呼びかけでした。


おそらく三日間、彼女たちらしい創造性に富んだ、つまりは私たち昭和の男どもの発想とは違う行動が次々に生まれてくるでしょう。
彼女たちは、この行動を「人と人を繋ぐもの」として、位置づけています。
対話で心を結んでいく始まりとして、ここにいるのです。


以前にも書いたとおり、ここまで来るのに半年。
福島の女性たちが「福島からの行動の呼びかけがほしかった、と言われた」と語るように、いまの反原発運動や、福島の人々を放射能の被害から身を守っていくのに、決定的に重要な行動だと旅団長も改めておもったのでありました。



この現場には「原発やめろ!」の一見、明るく見える要求と、その軽やかな表現があります。
でも、彼女たちが抱えている現実は、それはすさまじいものに違いないのです。
福島へ行き、少しはなしを聞けば、いくら軽薄な旅団長とて、その認識はできます。







年輪を重ねた女性のお顔を拝するに、いかん、いかん、旅団長の頭の中では 

♪ここが浅草よ、お祭りみたいに、賑やかねぇ やら、♪上野駅から九段までぇ 
やらが鳴ってくる。不謹慎である。


女やら母というと、これだから昭和のオヤジは、始末におえない。
が、やはり、国家と民のありようと、その最中にある母や若い女性たちの心の奥など思われて、どうしたって、わたくし、このアンビバレントな心持ち、
♪あったら泣くでしょ、兄さんは…、♪神と祀られもったいなさよ…のと、島倉千代子さんやら二葉百合子さんやらのお歌が頭の中に響くのであります。




最近、会計長が旅団長の不埒を諌めて「いまは言葉の闘いの局面なんだ」と、のたまうんだよね。
実際に、その通りだと思う。
原発をまたやり自らの権益を守ろうとする勢力と、原発をやめて新しい人と人との関係を作ろうとする勢力との「言葉による人々の獲得闘争」。






「九段の母」も、「東京だよおっかさん」も、嘘っぱちの抽象です。しかし、そのままにしておいたら、リアリティもまたもつのであります。
そして、いまは放射能汚染の只中にある、命と生活が脅かされている「戦時」であります。


この戦時下の非常時、経産省前に集うおんなたちよ、母刀自たちよ、孫子のために心残りのない闘いを! 
九段ではなく福島を心のふるさとにして、新しい生命の歌をうたえ!




と、心のうちでつぶやいていたら、いたじゃない。
あらあら、顔見知りが赤いクラリネットをぶら下げて、うら若き女性たちに囲まれている。
聞けば、「ふるさと」をみんなで歌うのだと。
んだよ、それだよ。


さて、座り込みは続きます。それに合わせてさまざまな行動が準備されています。
今日は、経産省に座り込み代表団が「原発やめろ」の要望書を持って乗り込みました。


明日よりの行動は以下のようです。
旅団員諸君の参加を願う。
                                      ★旅団長


*********************************



(1) 毎朝、プレス向けの説明会を開きます。
10時半から30分くらい、今回のアクションの意図を説明し、
記者の方々からのご質問にお答えする時間を作りました。
この件は、報道各社宛てに「取材のお願い」を提出してありますが、
もちろんフリーランスのジャーナリストさんも大歓迎です。
ぜひお越しください。そして、わたしたちのアクションを広めてください。




(2) 経産省に要望書の申し入れに行きます。(人数制約あり)
「福島の女たち」からの、4つの要望を書いた書面を、
経産省に届けに行きます。
日時は、27日11時を予定しています。


(3) 女性国会議員さんを訪問したいと考えています。(人数制約あり)
27日、28日の午後、予定しています。


(4) 福島市渡利地区住民政府交渉を傍聴します。
28日12:30から16:30の予定。


(5) 原発いらない福島の女たち~100人のデモ~
29日11:30集合:日比谷公園・中幸門
12:00スタート、東電前・銀座・東京駅前を経て、常磐公園にゴール。
 *最寄りの銀座線神田駅より虎ノ門駅へ向かい、経産省前に戻れます。
 *途中での出入りもOKです。


(6) 最終日の終了後、交流会を予定しています。
29日15時~ 日比谷公園かもめ広場


(7) 岩上チャンネルでUst中継いただくことになりました。
今回のアクションが、ライブ中継されるそうです。
残念ながら参加できない…というみなさんは中継をご覧ください。


原発いらない福島の女たち~100人のデモ~
29日11:30集合 12:00スタート
日比谷公園・中幸門、東電前・銀座・東京駅前を経て、常磐公園にゴール。
 *最寄りの銀座線神田駅より虎ノ門駅へ向かい、経産省前に戻れます。
 *途中での出入りもOKです。


(行動スケジュールはブログ「明日を信じられる時代になって欲しい。日常の活動日記」=存じ上げない京都の男性。より勝手に拝借いたしました。許されよ。座り込み現場での発言で内容は確かのようなので)

















2011年10月26日水曜日

10.23  いわき小名浜地区サロン事業へ初陣なり~!

いわき市小名浜地区災害ボランティアセンターから名前を「いわき市小名浜地区復興支援ボランティアセンター」に変え、新たな活動に乗り出した小名浜のボラセン。


その始まりが、サロン事業なのであります。


ずっと、いわき・小名浜に入り続けてきた、もみもみ肉球班のノボ先生曰く
「七たび旅して、いよいよ目指すところが見えてきた感じです」。
彼はついに小名浜に七旅なのです。
えらい! よくぞ、旅団長だけが言ってきた「七たび旅して、我ら、ウシトラの義兵にならん!」を忘れずにいてくれた。


つまりね、やっぱ、通わにゃいけんのよ。
通わなければ見えてこないものもあるし、変化していく課題にもついていけない。
単に「ニーズに応える」ではなく、もっと根本的な構えが必要という意識も生まれてこない。


というわけで、もみもみノボ先生をはじめに、なさけな隊ソメビン、テラ、本営の旅団長、会計長、茶水幽玄隊鉄兵(写真担当)の、6名で小名浜入り。






ボランティアセンター事務所




 ウシトラ旅団が考えていたのは、きっとコミュニティの創設が必要になるだろうということ。
それは「復興」を唱える人たちとも、むろん重なるのだけれど、それだけではない。
「新らしいコミュニティを!」であり、「被災者の人々の自分自身による、自立したコミュニティを!」ということでした。
ま、そんなしちめんどくさいお話はともかく、小名浜のボラセンへまずは向かい、状況をうかがいました。お相手をしてくださったのは、的確にお話くださる人見さん。
ボラセンの成り立ちから、被災者が入っている住宅、活動の問題点まで教えていただきました。
人見さんは、この日の活動にずっといっしょ。
彼女たちの奮闘なくして、外から入ってくるボランティアは用をなしません。




向かうは下神白(しもかじろ)の団地。
津波で被災した小名浜周辺の方々が主として入っているようです。
「ここに入る!」と珍しく強く主張したのは、すでに七旅を果たしたノボせんせいでした。





下神白住宅。6棟が並ぶ



臨時整骨院開設は集会所で







「何だか、人の動きがすくない。さびしい感じがする。大きなところは慰問やイベントたくさん。やりやすいだろうけど、そういうところはよそさまでよろしい。人が集まれるような箱をつくるところから始めよう。そういうところがウシトラを求めているんだ」と、泣かせる訴えであったのでした。
むろん、旅団長は一も二もなく賛同。


いわきには、いくつか大きな被災者用住宅が整備されてきました。
たとえば中央台の仮設住宅は、1000戸といったか、原発事故由来の避難者がたくさんいらっしゃいます。
そちらへも行きたいという思いはあれど、まずは、この下神白でしっかりやっていこう、ということなのでありました。




さぁ、戦闘準備。


『サロンさ よってがっせ~』と『臨時整骨院』ののぼりを本営員が立てて、文句一つ言わず率先して、鉄兵が集会所を雑巾がけ 
やるじゃん。


小名浜のボランティアWさんは、自営業でなれたものと言いつつ、のぼりを立ててくれました。


ノボさんは、手作りの診療台をキュキュと組み立てます。
この診療台も実は、ノボだちの大工の棟梁のボランティア作品。
1次、2次、3次、と、ウシトラの活動もうまく構造が作れつつあり、みなさんに支えられております。
ありがとう!
上北沢は「悦工務店」の内藤御棟梁に、みな、恩義は忘れるでねぇぞ。




ノボさん、ゴッドハンドぶりを発揮して、
「ほら、軽くなったでしょ」
「あややや、ほんどだ。こんな先生に診てもらって、ありがたいわ」。


で、治療を終えた人たちも、治療中のセンセの話を聞き逃すまいと、お茶とお菓子の場にずっといらっしゃる。
おぅ、サロンもうまくいってるじゃねぇか。


治療を終えた方に話を聞く。地元や水戸から来たというボランティアの方もご一緒に。
みんな仲間だんべよ


初めてのところだしぃ、人の動きがあまり見えないということだったしぃ、人見さんもあんまり期待もたせないようにしてるみたいだしぃ……、
という心配をふっとばす盛況だったのでありました。
サロンを閉める4時前まで、センセはずっと働きづめ。


ゴッドハンドの杖・コロコロ機械は、どうだ! もみもみ角猫の肉球だぞぉ、(と、旅団長は勝手に悦にいる)。




で、そのころ、芸も技術もない旅団長たちといえば……。










ハンカチしっぽ取り鬼ごっこ。
旅団長、腹が出て体重く、ステップ切れず、ただ「ぜいぜい」の呼吸。
会計長、腰痛の恐れに泣きて三歩あゆまず。


それにしても、この子達のよく遊ぶこと。
おおらかで、すこやかで、よく笑い、走り回り、きちんと話す。
ああ、東京あたりではもう、絶滅危惧種ではないか。
おじさんは、しんみるする。




























実際、この子達の笑顔を見ていると、こちらがうれしくなるのだが、すぐさま脳裏には放射能のことが追いかけてきて、どうにもこうにもやりきれなくなる。


太郎や次郎の上に、降り積むのは、
雪でなければならず、けっして、放射性物質であってはならない。


どうするんだ! 
大人の責任だろう。子供たちの安全をまず図れ、と叫びたくなる。


それぞれの家庭や、地域の事情はあるだろう。
その中で、どのような選択を取るのが正しいのかは、そりゃぁ難しかろう。
けれど、少なくとも、全体で、つまり国や自治体が思い切った方策をとらない限り、子供たちは動きがとれないのだ。
銭金は後だ。それは東電がつぶれるまで、全部、責任をとってもらわなければならない。
そのつもりで、いま、大人全体がやらなければならないことがあるだろう。


いかん、また、旅団長の芸風を踏み外してしもた。




















ウシトラ旅団下神白駐屯ツノネコ義兵に君を任ずる。この次までに角をはやしておくように!
臨時整骨院は人気が高く、再訪のリクエストが多かったそうです。
たぶん、来月も、ここに入ることになりそうです。


この団地に以前から住んでおられる方々、被災してここにこられた方々、きっとさまざまな課題がそこにはあることでしょう。
それでも、いっしょに助け合って行けるように、いいコミュニティが作り上げられていくように、ウシトラは出来る限りの助太刀をしにいくつもりです。


技術もなく、単なる山の賑わいと思っていた他の参加者も、行ってみればいるだけで何かの役に立つという感想をもちました。


と、そんなわけで、サロン第一陣は思った以上の成功といえると思います。


サロン活動と合わせて、ある保育園の除染の様子や新しい仮設住宅地の視察にも行ったのですが、その報告は次回に行いたいと思います。


                              ★旅団長